『超ボブ・ディラン入門』、中山康樹、音楽之友社、二〇〇三年

 
今度はボブ・ディランだ。


中山康樹の執筆の動機・スタンスは、
ほぼビートルズについて書くときと同じであり、

『音楽家』として素晴らしい彼らを、『メッセンジャー・思想家』として
神格化・絶対化し、持ち上げることでその『音楽』が聴かれなくなること

への懸念がこの本の底に存在する。


中山は、ボブ・ディランは歌い手としての「天才」である、と定義する。
こう定義することで、同じ曲を何度もアレンジを変えて歌い続けたり、
無節操に他人のヒット曲をカバーしたり、いまだに年間に100回のコンサートを
こなすことの理由がわかる、とする。


つまり、歌い手として「歌いたかったから」だ。


また、ジャケットに無関心であったり、
レコーディングに関して優れたテイクを没にして凡庸な曲を収録したり…
…といった、理解不能な判断に関しては、
「天才」であるがゆえに何も考えていなかったのだろう、と中山は述べる。


どちらかというと、私は「神格化」に加担している方であり、
アルバムも数枚しか聴いていないので、ビーチ・ボーイズのときと同様に、
この本でボブ・ディランをより深く知ることが出来た、という程度なので、
中山康樹の意見を詳細に吟味することは出来ないが、
歌詞はもう少し評価してもいいのではないだろうか。


中山が批判するようにその歌詞に過大なメッセージ性を読み取るのではなく、
言葉の芸術として、その韻律・ライムを評価することは可能なのではないだろうか。


以下、面白かったところ。

「世界で8番目の不思議」……本名、ロバート・アレン・ジママン。
  いろいろな声が出せる。ギターもピアノも上手いのか下手なのかわからない。
  年間にこなすコンサート回数、いまなお約100回。
  サンタモニカでコーヒーショップを経営しているらしい。

実は一曲もヒット曲がない。

ヘンなヘアスタイル、伸び放題の髭、深刻だが実は何も考えていない表情

ロック化に伴うディランへの「野次事件」、
そして『ロイヤル・アルバート・ホール』の「裏切りもの!(ユダ!)」事件は、
あくまで伝説であって、事実はそれほどたいしたことではないのではないか。

あとがきも引いておこう。

あとがき
 CDが登場したことによって、人々の音楽に接する態度は
大きく様変わりし、その結果、音楽を聴くという行為は、
まるでファーストフード感覚の軽いものになった。
よくいえば身近になったということだが、しかし昨今の
「CDが売れない」という声に反映されている通り、
音楽はいつしかあえて聴く必要のない、
つねにそこにあるものへと変質を遂げた。
そうして迎えたのが、近年のベスト盤しか
売れないという困った状況である。…
…いずれにせよCD以降の音楽を取巻く環境は、どうみても音楽的とはいえない。
むしろ非音楽的な方向に向かって加速している。
前述したようにベスト盤しか売れない状況は、その先にある、
やがて音楽は聴かれなくなるかもしれないという未来図が、
決して遠い未来のことではないことを物語っているように思える。
だからこそ、これまでがそうだったように、
これからも音楽を聴いていこうと思う。
そして、いい音楽を、本物のアーティストを紹介するという
お節介を焼いていこうと思う。
ゆえに今回はボブ・ディランとなる。…


マイルス・デイヴィスビートルズ、そしてビーチ・ボーイズについての
中山康樹の諸評論に比べて、本書及び姉妹本『ディランを聴け!』は、
レコーディング秘話、音楽史を背景とした分析は少なく、
その点で僕には少々喰い足りなかった。
だが、それこそ、ボブ・ディランが「歌い手」としての天才ということの
証明なのかもしれない。

とりあえず、以後、中山康樹を手引きとしてディランを聴いていきたいと思う。
中山の指摘を吟味する意味でも。
「あとがき」の精神には心から同感である。

           

超ボブ・ディラン入門

超ボブ・ディラン入門