『動くな、死ね、甦れ!』、監督ヴィターリー・カネフスキー

蓮實 重彦の『映画狂人日記』でベタ褒めされていたのでビデオで借りた。

自信をもって断言するが、今年最大の映画的な事件は、
何といってもヴィターリー・カネフスキーの登場である。
カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ!』を見損なった人には、
しばらく映画という言葉を口にするのを控えてもらうしかないだろう。
間違っても、自分は映画が好きだなどとつぶやかないでほしい。


…『動くな、死ね、甦れ!』は、
それなりに備わっているかもしれない優れた映画であるための条件をあれこれ拾い上げ、
だから見なければならないと断言することへの意志を、まるっきり期待していない。
カネフスキーは、ただ、見るか、見ないか、というせっぱつまった選択をわれわれにつきつけているだけなのだ。


…『動くな、死ね、甦れ!』は言葉を奪う。
言葉を奪われた人間にできることは、せいぜい3つぐらいのことでしかない。
1つは、それが何ごとも意味はしないと知りつつも、むなしく比喩に逃れることだ。
…もちろん、それには何の効果もありはしない。
2つ目は、類似の題材を扱っているかに見える映画を、ひたすら列挙することである。
…もちろん、それにも何の効果もないだろう。
3つ目のやり方として、『動くな、死ね、甦れ!』で目にしたもの、耳にしたものを、
そのまま芸もなく記述してゆくことが残されている。
…もちろん、こんなことを書き連ねても、何の効果もありはしまい。
カネフスキーが53歳で撮った処女作『動くな、死ね、甦れ!』は、
なお、見るか、見ないかと荒っぽく迫ってくるばかりだ。
そしてこの選択は、映画を見るという「文化的」な習慣とはまるで異質の残酷な体験へと人を導く。
それはいわば「人生の選択」とでもすべき苛酷な体験であり、
離婚の決意や自殺の決意にも似た、一度限りの後戻りのきかぬ行動へと人を駆り立てる。
世界は、いま、『動くな、死ね、甦れ!』を見た人と見ない人とに大別され、
その二つの人類の間には到底妥協など成立しないだろう。

……すげー。蓮實重彦、かなり興奮してます。
この熱気に当てられたら見ないわけにはいかない。
DVDは発売されていないようで、VHSを職場近くのツタヤで借りてきた。
見た感想は、確かに「映画体験」と呼ぶにふさわしいかも。
ただ、ぼくは蓮實重彦ほど興奮はしなかった。
この感覚は何に似てるのか、と考えて、見終わってから再び蓮實本を読み直してみると、

われわれは、ゴダールの『勝手にしやがれ』を、トリュフォーの『大人は判ってくれない』を、
封切り当時、素肌に広がる未知の痛みとともに発見したのではなかったか。
そして、いくら言葉を綴ってもこの痛みが癒えることはなかろうと本能的に察知していたから、
やたらなゴダール論やトリュフォー論は書くまいと、心に決めていたのではなかったか。
カネフスキーとともに甦ったのは、そうした痛みの記憶にほかならない。
世の中には、見るか、見ないかという選択をごくぶっきらぼうに迫ってくる映画というものが
まぎれもなく存在するのである。

という記述を発見する。
なるほど。
確かに『大人は判ってくれない』と『勝手にしやがれ』をみた感覚に似ている。
話の筋が似ているだけでなく、映像、そしてある種の痛々しさも。
若者特有の幼稚な「ギザギザ感」とでも言えばいいだろうか。


つまらなくはなかったけど、蓮實の紹介を読んでいるときの方が興奮してしまった。
これはあるいは家のテレビで、しかもVHSで見たせいなのかもしれない。


補足 
amazonのカスタマーレヴューで「プロレタリア的」、「すぐれた社会劇」という評価を目にする。
なるほど、そういう見方もありますね。

動くな、死ね、甦れ!【字幕版】 [VHS]

動くな、死ね、甦れ!【字幕版】 [VHS]

映画狂人日記

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