『マシアス・ギリの失脚』、池澤夏樹、新潮文庫

冒頭が美しかったので引いておく。

朝から話をはじめよう。すべてよき物語は朝の薄明の中から出現するものだから。


午前五時三十分。
空はまだ暗いのに、鳥たちが巣を出て騒ぎ出す。
東の空は夜の漆黒から少しだけ青みを帯びた色に変わって、
地平線のすぐ下に大洋が待っていることを遠回しにほのめかしている。
鳥は騒ぐ。
勝手放題のまとまりのないコーラスで太陽を誘い出そうと騒ぎ立てる。
やがて、その声を遠く聞きつけてか、あるいはそれが天の決まりだからか、太陽はしぶしぶ顔を出し、
その最初の光が雲の間をついてこの島の上空を染める。新しい日がはじまる。
朝になって日が昇るのは決まりきったことだろうに、
善良な鳥たちは毎朝のそれをまるで奇跡のように異口同音に讃仰して迎える。


彼らは群れになって木立の上を飛びまわり、次第に数を増して輪を描きながら、
なおも寝坊の仲間を誘って鳴きさわぐ。
やがて群れが特別小さな黒いスコールの雲のように見えるまで密になった時、彼らは旋回をやめて、
一斉に南の海岸に沿ったマングローブの林を目指して飛んでゆく。
あたりはたちまち静かになる。
朝の三十分間と、同じく夕方の三十分間だけ、木立の上の空は彼らの騒々しい鳴き声に満たされるのだ。


鳥たちは遠い先祖の霊。
死んだからといってすぐに鳥になれるわけではないが、ずっと昔に死んだ人々の多くは鳥になって飛びまわっている。
霊たちは死んでから年を経れば経るほどわがままになり騒々しくなると、離島の長老たちは言う。
それにしてもこの数はどうだ。
この島が海から生まれた直後にはここは人で一杯で、今よりもよほど込み合った生活を人は送っていた。
その頃の死者がすべて鳥になり、しかも鳥は転生して人や鯨や蝙蝠になっても、それが死ねば再び鳥に戻る。
鳥の段階を経ない限り、動物たちは何にも転生できない。
一羽の鳥が蜜蜂になり、数万の子を生してまた鳥に戻る。
その数万の子も時を経ずして鳥になる。
だから、歴史のはじまり以来ひたすら鳥の数は増えるばかりで、それを目のあたりにするのが朝と夕方のこの騒ぎの時なのだ。

読んだのはかなり昔。
長く小説から離れていた時期で、電車の中で上の冒頭を読んでうっとりとしてしまったことを覚えている。
池澤夏樹は「理系出身」や「ギリシアとの関係」という点から語られることも多いように思うが、
ぼくにとっての魅力はなんといってもその文体。
小説を読んでいるときは言葉に酔いたいのである。
最近、高橋和巳を読んで(いまさら?)感じたことだが、
小説において、文体は頁をめくらせる大きな原動力だ。
この作品の冒頭では、池澤の文体と描写が美しく響き合っている。
神話的な内容をもつこの物語の始まりにふさわしい。
こんなふうに書き出されたら、その小説は半ば成功したも同然なのである。

マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)

マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)