『カフカ『断食芸人』<わたし>のこと』、三原弟平、みすず書房、二〇〇五

白水社の「理想の教室」シリーズで、
文字通りカフカの短編「断食芸人」の解説、というか謎解き本。
ただ、カフカ初心者(というのもおかしな表現だが)のために書かれた本で、
それほど深く突っ込んだ話をしているわけではないし、
アクロバティックな解釈を提示しているわけではない。


まとめの箇所を引いておく。

 当時のプラハに生きたユダヤカフカは、お金を得ても、権力を得ても、名声を得ても、
それらがことごとく何にもならないことはよく知っていました。
いつ戦争が、革命が、ポグロムが襲ってくるかわからない世界にカフカは棲んでいました。
階級対立、民族対立、あげくのはては人種対立までが顔をのぞかせ、その鋭さを増すなか、
群集という存在が脅威となり、宗教や神学はさらに形骸化し、政党政治家は堕落し、
支配者層(エリート)は力を失って、社会の内部は無秩序と化す一方、その解決法も突破口も見つからない。
そのような時代に生きたカフカにとっては、ファナティックに文学そのものとなることにしか救いがなかった。
書くことのためには、他のすべては、修行僧のように捨て去ろうとした。
書くことはカフカにとって、空位化した世界のなかで宗教的なものの代わりとなる唯一のものでした。
そのファナティックなまでに文学そのものになることが、断食芸人というメタファーで示されているのでしょう。


(なぜ、断食芸人なのか?)
カフカにとって、書く人である自分の寓意像は、断食芸人のイメージこそぴったり合っていたのでしょう。
カフカは文学者としての自分をバルザックの対極にあるものと考えました。
バルザックは有名なその杖に、<我、すべてのものに打ち勝つ>と刻していたそうです。
その対極として、「自分はすべてのもの打ち勝たれる」と。
しかし、さらに対極的なのは、バルザックが自分の書いたものに「人間喜劇」という総題をつけるほど、
様々な世界、様々な社会、様々な人物像をおびただしく造形したのに対し、
作家としてのカフカは、まさに一個の断食芸人のようであった、という点です。
即ち、バルザックを筆頭に、他の作家たちは人間を造り出すのですが、カフカは自分を物語るだけです。
――やはり自分も夥しく書く試みをするが、そのテーマは、いつも自分というただ一つのものである―
―他の作家たちに対して、もしもカフカに臆する気持ちがあったとすれば、
それは己の主題の貧しさに尽きるでしょう。
――こんなにも限られ、およそパッとしたところのない特殊例ばかりを
文学の主題とするのは僭越なのではあるまいか。
しかしその一方、主題がどれほど狭く限られ、低く卑近なものであれ、
それをいかに表現しているかという点で他を絶したものであれば、
やはりこの自分も作家たちの間に伍することが出来るのではないか―
―わたしには、カフカがそう考えていたように思われるのです。

うん、おそらくそういうことなのでしょう。
で、本書の副題の「<わたし>のこと」というのは「カフカ自身」という意味での<わたし>であり、
「自分は自分らしくあれ」という意味で、読者各人の<わたし>でもある、と。


はい、そういうことだと思います。


…しかし、そうあっさり言われてしまうと、ちょっと陳腐なテーマで気恥ずかしいし、
カフカ体験」を伝えきれていないような気がする。
他にも、物語中の「豹・肉食」は「生」の比喩であり、
断食芸人の生き方(=「断食」)と対比されている、という説明もある。
繰り返しになるが、そういうことなら、一読してなんとなくわかるのである。
ぼくがカフカを読むのは、
そういったわかりやすいメタファーや、
安易なユダヤ思想では解説しきれない気持ち悪さがテキストに充満しているからであり、
理解してしまったら激しく後悔してしまいそうな妖しい真理が潜んでいそうだからだ。

書かれてあるのとは別のことが意味されている、とくれば、それは寓話である。
しかし、この話(「断食芸人」)は寓話になりそこねている。
というのは、カフカの書く文章は、どの文章も読む者に「解釈せよ」と強く迫ってくるものの、
どの文章もそれを許そうとしないからです。

本書の冒頭のこの言葉でやめておいた方がよかったのに、というのが本書の感想である。

「断食芸人」の舞台である、「サーカス」の由来について。

18世紀後半、興行はさかんだったが、「曲馬館」と呼ばれていた。
サーカスという名前が使われ始めたのは、
1807年、「みだりに見世物の興行をしてはならぬ」というナポレオンの布告による。
これにより、「劇場」という名前が使えなくなり、ラテン語の「サーカス」を用いるようになる。
(まあそれならよい、と大目にみてもらえた。)
というのも、「フランス革命とは古代ローマの引用であった」からである
ベンヤミン、『歴史哲学テーゼ(XIV)』)。
革命当初、古代ローマの名をリバイバルさせることがフランスでは流行していた。

それにしても、秀逸なのが

女性なしには書くことはできない、女性と一緒では書くことはできない

というカフカの言葉。
深いなあ…。

カフカ『断食芸人』“わたし”のこと (理想の教室)

カフカ『断食芸人』“わたし”のこと (理想の教室)