待つことの悦び 2(四方田 犬彦)

昨日の続きです。 

四方田先生の『待つことの悦び』から、「待つことの悦び」4連発。

 

 

待つことの悦び

待つことの悦び

 

 

教科書に掲載されるなら、わたしはこの文章を推します。

 

待つことの悦び 2
 忙しい、ということは、なるほど悲惨な体験のように見えて、ときには悲惨から眼を逸らすためにもっとも手軽な方法かもしれない。
 ひっきりなしに電話がかかってくる。次々と愚かしい書類を作成し、ハンコを押し、会議に出席しなければならない。原稿の締切りは目白押しに追っている。郵便屋はいちどきに沢山の手紙を運びこみ、ひとつひとつに目を通しているうちに、ほら新しい電話だ、書類だ、ピンポーン、あっ、だれかお客さんが来ちゃった。すみません、ちょっと割りこみ電話が入ってきたので、ピンポーン……とまあ、こんな具合にして一日がすぎてゆく。あっという間に深夜だ。さて、あとは何をやっつけておかなければいけないのだっけ。おや、また電話だ……。
 忙しいとロクなことがない。ものごとを丹念に眺めることができなくなるし、自然とロのきき方も粗略(ぞんざい)になる。風景が無味乾燥に見えてくる。怒りっぽくなるし、怒りが去ったあとにはいっそう忙しくなる。
 けれども忙しさよりもっと恐いことがある。それはすっかりひとりぼっちになったところで、本当の自分と向かいあってしまうときだ。
 エミリー・ディキンスンというアメリカの詩人が書いている(新倉俊一訳)。

 

  石に追われて僧院を駆け抜けるほうが
  はるかに安全だ
  淋しい場所で武器もなく
  自己と出会うよりは

 

完訳エミリ・ディキンスン詩集(フランクリン版)

完訳エミリ・ディキンスン詩集(フランクリン版)

  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: 単行本
 


 ディキンスンは生涯にただ一度の失恋が原因で、30歳のころからほとんどまったく家の外に出なくなった。56歳で死ぬまでに1,700篇の詩を書いた。いつも白い服しか身につけず、精神の危機に耐えるため詩作に没頭したという。なんという人生だろう、とぼくは驚嘆する。おそらく彼女は、昼も夜も、日がな一日自分と直面しながら、不安で危機に満ちた歳月をすごしてきたのだろう。
 この精神の試練に耐えられない人は、てっとりばやく多忙さの側へ逃れるといい。他人がなんとでもきみの時間を秤にかけ、切り売りしてくれる。きみは余計な心配などしないで、山ほどある雑事に突入していけばいい。そうすれば「淋しい場所で武器もなく/自己と出会う」ことなどしないですむ。歳月がすぎる。それからさらに歳月がすぎる。そのうち、きみは出会うべき自己などとうに忘れてしまうことだろう。

 16か7のころ、ぼくが漠然と考えていたのは、どこかに真実の人生というものがあって、今すごしているのは仮初の、何の価値もない生活にすぎない、というようなことだった。いつかきっと、これまで深く隠されていた人生とやらがぼくの眼の前に出現するはずだ。それまでは姿勢を正して、大人しく待機していなければならない。たとえ毎日が砂を噛むよりも味気ないものだったとしても、黙って耐えていなければならない。
 こうした考えを馬鹿馬鹿しく思うようになったのが18のときで、それから完全に自由になったと信じることができたのは22のときだった、と憶えている。ぼくは待つことに飽き飽きした。真実の人生も、仮初の生活もあるものか。そんなものは言葉の綾だ。英語にしてしまえば、「人生」だって、「生活」だって、どっちもlifeじゃないか。要はその日その日を、目いっぱいに頑張るしかないはずだ。
 それは冬の、とても風の強い日だった。マフラーを二重に巻きながら街を歩いて、ぼくはこれまでどうしてこんな簡単な真理に気がつかなかったのだろう、と奇妙に思えた。ひどく不幸な事件のあとで、心は疲れるだけ疲れていたが、とたんに足どりが軽くなったような気がした。
 今にして思えば、真実の人生は、こちらの待機とは別に、ちゃんと到来していたのである。そしてぼくは、いつの間にか待つことを終えていたのだが、それに長いこと気がつかなかっただけなのだった。

 

 「けれども忙しさよりもっと恐いことがある。それはすっかりひとりぼっちになったところで、本当の自分と向かいあってしまうときだ」というのはよくわかります。

プライベートで辛いことがあったときとか、わざと仕事のスケジュールを詰め込んだりしますよね。

 「待つことの悦び」というタイトルへのまとめは少し唐突な気もしますが、それは次回、次次回へ。