『椿姫』、デュマ・フィス、新潮文庫、1848

椿姫 (新潮文庫)

椿姫 (新潮文庫)

これもまた「名作読み上げ期間」に読んだ本。
やはり内容をよく憶えていないので、カバー裏の「あらすじ」を引いておく。

その花を愛するゆえに”椿姫”と呼ばれる、貴婦人のように上品な、
美貌の娼婦マルグリット・ゴーティエ。
パリの社交界で、奔放な日々を送っていた彼女は、
純情多感な青年アルマンによって、真実の愛に目覚め、
純粋でひたむきな恋の悦びを知るが、彼を真に愛する道は
別れることだと悟ってもとの生活に戻る……。
ヴェルディ作曲の歌劇*1としても知られる恋愛小説の傑作である。

冒頭もちょっと面白いので引いておこう。

 どんな国の言葉でも、真剣に勉強してからでなくては話せないように、
まず人間というものを十分に研究してからでなければ、
小説の中の人物をつくることはできない、というのが私の持論である。
 わたしはまだ人物をつくり出せるほどの年になっていないので、
ただ事実をありのままに物語るにとどめよう。


…なんか、粘着質な性格がうかがえます。
また別の箇所。

ユゴーは『マリオン・ド・ロム』を書き、ミュッセは『ベルヌレット』を書き、アレクサンドル・デュマは『フェルナンド』を書いた。いつの世においても、思想家や詩人たちは娼婦たちに慈悲に満ちた捧げ物をしている。ときには、偉人といわれる人でさえ、その愛情や、あるいはまたその名声で、彼女たちの汚名をそそいでやっている。わたしがこんなにまでこうした点についてくどくど言うのは、わたしの物語を読んで下さろうという人の中には、この書は、まるで背徳や売春の弁護ばかりをしているのではないかと懸念し、それに、作者の年齢がまだ若いということがおそらくはさらにいっそうこの懸念の理由ともなって、すでに途中で投げ出そうとしていられる方があるいは大勢あるかと思うからである。しかしそう考えていられる人は、ぜひそうした誤解をといていただきたいものである。もしもただそんな懸念だけで読むことをよしていられるのなら、どうか先を続けて読んでいただきたいと思う。

本当にくどいなあ。
自己弁護はいいから、早く先に進んでよ、という感じ。
自意識が強い人の典型的な書きっぷりだ。

アルフォンス・カール」の『喫煙しつつ』という本の中に、こういう話があります。
ある夕方のこと、ひとりの男が、非常に美しい女のあとをつけて行きました。
たった一目見ただけで惚れ込んでしまったほど、その女性は美しかったのです。
男は、その女性の手に接吻するためには、どんなことでも企てる力、どんなことでも征服する意志、
どんなことでもやってのける勇気があるように思い込みました。
そのくせ、彼には、着物のすそを土で汚すまいとして高くからげている
その女性の美しい魅惑的な脛さえ見る勇気はなかったのです。
彼が、この女性を手に入れるためにはどうしたらいいかしらと
いろいろ思いめぐらしていると、ある街角で、その女性が彼を呼びとめ、
自分のうちへ寄っていかないかといううのです。


ところがその男は、顔をそむけ、道を横切ると、
すっかり悲しい気持ちになって自分の家に帰って行きました。


わたしはこの話を思い出したのでした。
そして、マルグリットのためならばどんな苦労をしてもいいと思っていたわたしは、
彼女があまりにも無造作にじぶんを受け入れ、
長いあいだの辛抱と大きな犠牲で贖おうと思っていた恋を一も二もなく
わたしにくれてしまうのではないかと、それを恐れたのでした。
だいたい、男というものはみんなこんなものです。
想像がこういう詩情を感覚に残しておいてくれればこそ、
また、肉体の欲望が魂の夢に対してこういうふうに一歩譲っていればこそ、
幸福なのです。


つまり、《おまえはこの女を今夜じぶんのものにすることができる。だがそのかわり、あすお前は殺されるのだぞ》とこう言われたとしても、わたしはきっとそれを承知することでしょう。ですが、《10ルイやってごらん、そうすればお前はあの女を自由にすることができるよ》と言われたとしたら、わたしは、それをはねつけて、夜の夢に見た城が目がさめてみたら消えてしまっているのに泣くあの子どものように泣くことでしょう。

ウッディ・アレンの『アニー・ホール』の冒頭のモノローグとか、
ニュー・シネマ・パラダイス』の挿話、三島由紀夫の『綾の鼓』のような話。
自意識過剰というか、結局自尊心が一番大事、という話じゃないのかな、これって。


ついで。

寛大と許しを世の人に教えるために、キリスト教は放蕩息子の巧みな寓話を用いている。
(新約・ルカ15・11-32)

あんな女どもの言うことなんか、いちいちまじめに考えないことさ。
あいつらは、礼儀作法なんてことは一向にご存じないんだ。
犬に香水をふりかけてやるようなものさ。
かえって犬は匂いをいやがって、溝の中に飛びこんで転げまわるといった始末だからね。

パリへ帰ると、わたしはこの物語を聞いた通りに書き上げた。
この物語には、一つの価値、つまり事実そのままだという価値しかない。


そうそう、デュマ・フィスは大デュマの私生児だったらしい。
また、作中の「マルグリット」には、「マリ・デュプレシ」なる実在のモデルがいたらしい。


軽くまとめるつもりが、こんなに長くなった。
ちょっとメモしておきたくなるところがぞろぞろ出てくるのが古典の特徴か。