待つことの悦び 1(四方田 犬彦)

部屋の整理をしていたら、四方田先生のエッセイが出てきました。

これから4日間は「言葉三面鏡」はお休みして、四方田先生の文章にそってものを考えたいと思います。

 

待つことの悦び

待つことの悦び

 

 

『待つことの悦び』。

絶版のこの本、いまでは定価の2倍以上の値が付いています。

何でもタイトルにもなっている「待つことの悦び」というエッセイは、高校の現国の教科書にも採用されたとか。

 

わたしが惹かれたのは、その市場におけるプレミアム的な価値にでも、教科書に採用されたことへの野次馬的な興味にでもなく、純粋にそのタイトルにでした。

四方田先生の本のタイトルは、その意味が完全に把握できないために中身を確認したくなるようなものが多い。『狼が来るぞ!』『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』『見ることの塩』。

抜群のネーミングセンス、というのとは少しちがいますが、あ、四方田先生の本かな、と感じさせるオリジナリティがあります。

 

さて、この『待つことの悦び』には、「待つことの悦び」という短い文章が4編おさめられているので、それを一つずつみていこうかと。

 

今日はその1つめ。

内容は……これは若い読者に向けて書かれたものでしょうか。

これが教科書に掲載された文章で、多くの学生が四方田先生の名前をこの文章で知るんだったら、ちょっと嫌だなあ。

 

待つことの悦び  1

 待つという行為は苦痛なのだろうか。それとも悦びなのだろうか。
 生きている間には、そのいずれとも正確に分類することができないままに、こちらをいやがおうにも巻きこんでしまうといった行為が存在している。あるとき、人を待つとはひどく甘美な体験である。心は思うがままに憧れに身を委ねる。いや、あくがるという古の言葉が、そもそも本来あるべき場所を離れて彷徨うことを示しているとおり、魂は今ここにないものを索めて、待機の姿勢をとる。別のあるとき、待つことはひどく辛い苦業である。朝に抱いた希望も夕暮時にはうち萎え、幾晩も寝つけない夜が続く。そして疲労困憊のはてに、人は忘れるという行為を選ぼうと決意する。期待と忘却とは、さながら双子の姉妹のようだ。では、忘れるということは苦痛なのだろうか。それとも悦ぴなのだろうか。

 約束の時間には十分早く到着した。期待に心を震わせながら、自分の部屋でひとりっきりで時間と向きあっているのが、耐え難く思えたからだ。出発の直前まで、電話がかかってくることが気掛かりだった。受話器から聞こえてくる突然の断りの声。それがいかなる理由からであろうと、世界の幸福を遮断してしまうかのように響く運命の声。その声を直接耳にしたくないというだけで、ぼくは部屋のドアに鍵をかけ、街へ出てきたのだ。
 待ちあわせの時間だ。まだ彼女はやってこない。当然のことだ。心はみずからそういい聞かせ、彼女が地下鉄の改札を出て、階段を足早に登ってくる光景を、さながら一枚の絵のように夢想している。
 十分が経過し、期待はいよいよ昂まる。今もう少しで彼女がキャフェの扉を開けて、ぼくの姿を見つけだしてくれるのではないか。もうぼくはすっかり魔法にかけられたかのように、一歩も?を動かすことができない。少しでも異変が起きれば何もかもが崩壊してしまうのではないかという、緊張に満ちた時間がすぎる。心は恍惚感でいっぱいだ。
 最初の絶頂の時間がすぎる。彼女の不在は、しだいにぼくを不安の淵へと追いやる。遅れるというのなら、あらかじめ連絡をくれればよいのに。疑惑が心の片隅に目覚める。いったい何が起きたのだろうか。出かけしなに生じた急用? あるいは不慮の事故? ひょっとして彼女は約束の時間を間違えたのではないだろうか。懸念は懸念を呼び、不吉な空想が続く。次に到来するのは苛立ちだ。彼女の誠意が疑わしく思えてくるに応じて、不寛容の気持ちが鎌首をもたげてくる。最後に会ったときの彼女を連想させるすべてのものが、偽りに思え、自分が片時でも真摯な感情を相手に対して抱いたことが、たまらなく滑稽に見えてくる。
 ひとしきり怒りの発作が襲ったあとに静かにぼくを見舞うのは、暗いメランコリアである。自分が世界のあらゆるものから見離されてしまったという自覚。孤独。絶望。よるべなさ。この気持ちをだれに告げていいのかわからぬままに、ぼくは傍の席で対話に夢中になっている人たちに視線をむける。世界がたった今破滅を迎えたばかりだというのに、あの人たちは何ひとつその徴に気が付いていないなんて。心に酢に似たものがこみあげてくる。彼女がやってくるなどと期待してはいけなかったのだ。けれども、ひとたび崩れ去ってしまった世界の因果と秩序を、ぼくはどこに発見すればいいのか。

 彼女が到着する。ぼくの心の波瀾万丈の変転などまるで存在していなかったかのように、最後に会ったときと変わらぬ快活な表情と口調で、ぼくの前に現われる。それは恩寵だ。ぼくはあってはならない奇蹟が眼の前で実現されたかのように、新しい状況の一切を受けとめる。時間の遅れへの懸念も、苛立ちも、落胆も、もはや遠い後景へ退いてしまった。遅れたことのたわいのない原因を説明する彼女は、なんと美しく、魅力に満ちていることか。ぼくは待つことを心の底から体験したのだ。