『ハイスクール・ブッキッシュライフ』、四方田犬彦、講談社、2001年

「わたしは幼いころから書物については
 誰にも負けない貪欲さを発揮していた子供であった」
と自負する四方田犬彦の、
高校時代に読んだ本を30年後に再読した体験を綴ったエッセイ。


テキストの文化的多層性を解きほぐし、
別の文脈に接続していく四方田氏の分析に痺れます。
何より、文章が素晴らしいのです。
いつも通り、気に入ったところを引いておこう。

プルーストの『失われた時を求めて』について)
全巻を通読できたのは、それから十年ほど後のことである。
そのときに思ったのは、
自分がこの小説を論じることはたぶん一生ないだろうなという、
漠然とした予感だった。

夕暮れや友情がそうであるように、プルーストの作品にしたところで、
自分が生きている世界に無償の悦びとして存在し、
気が向いたときにそれを手にとれば心が深く慰められる
というものであれば、それで充分なのではないか。


当時のわたしはスウィフトの『ガリヴァー旅行記』をめぐって
修士論文を準備している最中であった。
スウィフトを選ぶにあたって躊躇はなかった。
その世界が分析のための知的好奇心をそそることはあっても、
けっしてわたしに親密感を催させるものではなかったことが、
その最たる動機であった。


プルーストはといえば、
逆にわたしをあまりに甘美で怠惰な世界へ
拉致してゆくように思われた。
後にロラン・バルトが、遺稿となった文章の中で、
「愛するものについて語るときには、いつも失敗する」
と記しているのを知って、わたしは我が意を得た。
この一時代を画した批評家は、
(結局は受理されなかったが)博士論文のために
ラシーヌを構造分析することには少しも迷いを示さなかった。
だが大好きなプルーストについては、きわめて消極的だった。


彼は『失われた時を求めて』を
「十九世紀が生み出しえた大がかりな宇宙開闢説のひとつ」
と賞賛しながらも、何編かのきわめて短いエッセイしか遺していない。

人はまだ完全に所有していないものしか愛することができないのだと、
思い当たる。
……その不在は愛を喚起させるが、現前は退屈で耐え難い。

女性は読書家の天敵である。
(『眩暈』、カネッティ)

もとより文学の勉強など、
大学でわざわざ人に教えてもらってすむことではないという、
野蛮にして傲慢な思い込みがわたしのうちにあった。
わたしがいまだに文学を使用言語に応じて
平気で区分する人たちに距離を置いてしまうのは、
彼らが文学を大学行政や業績認定の問題程度にしか
認識していないからである。

「わが意を得たり!」
同じようなことを柳瀬尚紀も述べていた。
こういう姿勢、すごく共感できます。


そうそう、ゴダールの『アルファヴィル』の最後の場面の
コンピュータの独白の台詞はボルヘスの引用らしい。
で、ゴダールはこれをロラン・バルトに喋らせたかったのだけれど、
映像と関わることにつねに慎重であった
記号学者のバルトはこの申し出を断り、
以後この二人の仲は険悪になったそうだ。


『ハイスクール・ブッキッシュライフ』は、
文字通り四方田氏の机の上での生活を綴ったものだが、
アナーキーな課外活動の方は『ハイスクール1968』で
述べられることになる。
ただ……『1968』の方はファンの間でも賛否両論だと思う。
ぼくも、『ブッキッシュライフ』で止めておいてくれれば……
という気持ちもちょっとあるのだ。


ハイスクール・ブッキッシュライフ

ハイスクール・ブッキッシュライフ