『魯迅 めざめて人はどこへ行くか』、四方田犬彦、ブロンズ新社、1992年

いつもながら、四方田犬彦の著作を読むとぼくは勇気付けられる。
子供を対象として書かれたこの本を読んでもそれは変わらない。


ブロンズ新社の小学校高学年から中学生を読者対象とした
伝記シリーズの中の一冊。
伝記シリーズの人物の中で、魯迅を書いた理由は、
なんでも、そのシリーズのリストをみて、
アジア人とアフリカ人が一人もいないことを指摘した四方田氏が、
編集者にではアジア人を担当してもらおう、と頼まれたかららしい。


日本人にいまひとつなじみの薄い魯迅だが、
四方田氏の筆によってその人生が活き活きと印象深く描かれる。
皮肉家で、人間としてある程度の欠点を持ち、
行動的で情熱的な人間としての魯迅


狂人日記』や『阿Q正伝』、
そして 晩年の作品『出関』が
魅力的なテキストとして目の前に甦ってくる。


読者層に合わせ、ほとんどの漢字にはルビが振ってある。
こういう本にせめて高校のときにでも出会っていたら……って、
もういいか、四方田氏に関するこの手の反省は。


いつもながら、心に残ったものを引いておく。

われわれは家族や友人の死について、いつまでも思い出し、
その人の顔や言葉づかいや、
生きていた頃の懐かしい出来事について語ることができる。
しかし「三百人の死者」や「二千人の死者」については、
どのように心に思いえがけばいいのか。
世界中の誰が彼らの一人ひとりの顔や言葉づかいを
おぼえていてくれるのだろうか。
彼らが受けた苦しみを、誰がいま語ってくれるのだろうか。
歴史を勉強するというのは、
学校で年代や偉い人の名前を暗記することではない。
こうした、名前のない死者たちのことを考えてみることである。

……人と人が出あうということはきわめて大切なことなのである。
一期一会という言葉があるが、
たとえ人生のうちに一度でもその人に会って、
わずかの時間でも言葉を交わしたことがあれば、
そのために残りの人生がすっかり変わってしまう、
ということがあるのである。
この本を読んでいるきみも、
自分がどうしても会いたいと思う人物がいれば、
迷わずに手紙を出すなり、あいだに立ってくれる人を探すなりして、
会おうと思わなければならない。
それがどれほど偉い人であろうが、どれほど有名な人であろうが、
かまわないではないか。

そうそう、「魯迅(るーしゅん)」というのは38歳のとき自分でつけた筆名で、
本名は周樹人(ちょうしゅうれん)という名前だったらしい。
魯迅」とは、「魯鈍」だが実は「迅速」という寓意が込められているようだ。

魯迅―めざめて人はどこへ行くか (にんげんの物語)

魯迅―めざめて人はどこへ行くか (にんげんの物語)