『ハサミ男』、池田敏春監督、2005年

精神分析的な映画批評の出現により、映画は「簡単」になった。

思わずそう言いたくなってしまう、極めてフロイディッシュなフィルム。

メフィスト賞を受賞した殊能将之の小説が原作の映画化で、
「美人で清潔で成績が優秀な女の子」ばかりが
のどにハサミを突き刺されて殺される連続殺人事件の話。
もともと原作がフロイト的だから仕方が無いとしても
(ハサミはもちろん去勢の比喩。
このフィルムでは去勢への「恐怖」ではなくて「願望」になるわけだけど)、
ちょっとあからさますぎ。


「聳え立つ鉄塔」で殺人が行われたり、
クライマックスの捕り物のときに
阿部寛が「拳銃」で自殺したりヒロインが「拳銃」で守られたり、
ヒロインの父親が「高い建物」から飛び降り自殺して「下に落ち」たり、
いちいち寓意的。
これはぼくが変態的な深読みをしてるわけじゃないと思う。


フロイトを知って間もない人ならば今挙げたような仕掛けを発見して
楽しめるかもしれないけど、
反面、こういうのって真似するの簡単だから、
すぐにステレオタイプ化して飽きられてしまう。
ハサミ男』に使われてる比喩は典型的なものだけに郷愁すら感じてしまう。


あと、「多重人格」の仕掛けもねぇ…。
これこそ食傷気味かな。


ハサミ男』が逆説的に突きつける二つの問題点。


それは、

映画制作における精神分析的な解釈との距離の保ち方

と、

「多重人格もの」の新しい語り方の可能性

ということだ。
前者の問題は、真剣に考えれば考えるほど映画は撮りづらくなるだろう。
なにしろ、「絵それ自体」と「その絵が象徴するもの」を
常に考えつづけねばならないのだから。
これだけ精神分析的な映画批評が流行していると、
映画監督は不自由だろうな、とよく思う。


ただ、ここまで否定的に書いてきたけど、
実は一番困るのはこの映画がそこそこ面白いことにある。

最初の15分で物語は読めてしまうし、最後の15分は冗長だ。
それを単に退屈なフィルムにせず、
最後まであれこれ考えながら観ることができたのは、
言及した色々な仕掛けのせいだ。
ステレオタイプの寄せ集めだけでもそこそこ面白いものがつくれてしまう。
この事態こそ冒頭で「映画は簡単になった」と述べた意味なんだけど、
もちろんぼくはそんなフィルムには不満だ。
フィルムに限らず、ぼくが作品に望むものは
「周りの人間がポカーンと置き去りにされるぐらい新しい打ち出し」、
狂気さえ感じるようなオリジナリティだから。
*1


嬉しい驚きは音楽が本多俊之だったこと。
映画音楽家としての本多俊之を久しぶりに聴けて嬉しかった
(プレイヤーとしての本多俊之はもっと御無沙汰だけど)。
……嬉しかったけど、失敗してる。
本多俊之の才能はその天性のメロディメイキングにあるので、
厳しい言い方をすればサックス奏者としてはいまひとつ。
その意味で、このフィルムの音楽として、
「ソプラノサックス一本によるマイナーのメロディを伴わせる」
という試みは悪くないが、
それを本多が自分自身で吹いてしまうのは失敗だ。
途中から演歌のソロに聞こえてきて音楽がフィルムと分離し始めた。
数々の伊丹作品のように、
エンターテイメントに起用すれば抜群の相性のよさを示すと思うのだけれど。

ハサミ男 [DVD]

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*1:「もっとも、発酵するほどのマンネリズムがまるっきしダメなのかと問われると、そうとも言えない」(c)SDPことスチャダラパー。なぜなら、オリジナルなものとはステレオタイプを熟知した上でないとつくりようが無いから。