『知識とは』(四方田犬彦、『黄犬本』より)

大学生が教室の講義で得る知識というのは、
大学生のとき得る知識の三分の一でしかないと思う。
あとの三分の一は、
学校の帰りなどに映画館や美術館に行って得る知識であり、
残りの三分の一は友人などの横のつながりで、
人に会ったり、本を読みあったりして得る知識だ。
だから、大学の講義だけで知識を得ようとせず、どんどん寄り道をし、
より多くの人と知りあって欲しい。

知識というものは、個人でもっていてもほとんど意味のないものだ。
他人に教えたり、交換しあったりしてはじめて意味のあるものになる。
一方ではそれがあまりに高速度に展開してしまって、
現在は、知識=情報となり、
「交換可能」というより交換しかできなくなっている。
では情報を持っている人間が、道徳的に立派かというと、そうではない。
つまり、情報と知識をもっていることが、
人間の価値をはかる基準とはならないわけだ。


ぼくはすべての人間が、すべての知識を平等に持つべきだと思う。
要はコンピューターにでも任せられる、知識というやつを超えたところで、
どれほど思考をフレクシブルに続けられるかではないだろうか。
四方田犬彦、『黄犬本』より)

四方田犬彦は、常にぼくに前に進む力を与えてくれる。
現在では「知識=情報」であり、
「交換可能」というより交換しかできなくなっている、
という指摘はまったくその通り。
というか、既にぼくらの世代では子供の頃から
「知識がある=道徳的に立派である」という等式も成り立たないのではないか。
だがもちろん、四方田氏も述べているように
知識=情報をもっていることはマイナスになるわけではないのだ。
知識は判断・行動のための道具。
それを忘れないようにしよう。


ここのところ私的に忙しく、PCに向かうことができない日が続いた。
少々落ち着いたので、また書くことにする。

黄犬本papers ’89~’90

黄犬本papers ’89~’90