『「かわいい」論』、四方田犬彦、ちくま新書、2006年

題名通り、「かわいい」という概念を扱った本。
新書で、四方田氏の本にしては手に取りやすいのが嬉しい。

まず、前提として、

「かわいい」の語源としては、「かはゆし」よりもむしろ「うつくし」であること

英語では「かわいい」の訳語として「cute」が使われるが、
「cute」の語源は「acute」であり、
日本語の「かわいい」とは完全に一致しないこと、

などが挙げられ、
日本人の我々が日常で何気なく使ってきた「かわいい」という言葉が、
歴史的・世界的にみて特異な言葉であることが説明される。
そのとき、しばしば海外でも話題になる、
日本におけるオードリー・ヘップバーン人気の異常さも、
ヘップバーンの魅力はその「かわいさ」にある、と説明される。
日本以外の国ではヘップバーンの魅力を説明する言葉がなかったのだ、
というわけだ。

途中で

19世紀から20世紀にかけての美学論議とは、
ただひたすらに「きもかわ」を理解するためにあったのか

なんてうがったことも述べられてて興味深いけど、

美は人をして畏敬と距離化へと導くが、グロテスクは同情を喚起する。

なんて言葉は、「きもかわ」を説明だけじゃなくて、
「かわいい」の核心に近いことを述べてると思うね。


内田春菊の『南くんの恋人』の洞察が面白かったので、
少し長くなるが引いておく。

南くんはちよみを愛おしくも可愛そうにも思い、
彼女に対し献身的な保護を申し出る。
彼は自分の愛情が純粋にして無償であることを、信じている。
だが内田は、ともすればその姿勢が
男性による女性の支配の原型であることを、言外に示唆している。
ちよみが健常者と同じ権利と欲望を主張し始めたとき、南くんは当惑し、
ときに怒りに近い感情を体験する。
「かわいさ」のベイルの影に隠されている、
他者としての女性の存在に脅威を感じてしまうのだ。


小さなものをめぐるフェティッシュな偏愛は、
その対象とそれを見つめる側との間に、
好むと好まざるとにかかわらず成立してしまう
政治性を抑圧する方向へと向かう。
ひとたびこの事実を認めたとき、
「かわいい」とはこの隠蔽の作業のために動員されてくる、
イデオロギー的方便であることが判明するはずだ。
人はミニアチュールを契機として夢想に耽り、
現実の風荒ぶ世界、歴史と罪障意識が跳梁する世界から逃れて、
秘密の内に親密さだけが支配する内側の世界へと逃避する。
だが虚構の感情は、内側と外側を分割する
二項対立の装置を信じきることによってのみ可能であり、
ひとたび外部から予期せざる侵入者が越境し、
内部を汚染しにかかるや、深刻な危機に見舞われることになる。
「かわいい」という観念はこの危機を回避し、
清浄にして安息感に満ちた内側の神聖さを保証する役割をはたしている。
南くんの恋人』が物語っているのは、
少女の偶然の不幸をめぐるメロドラマなのではなく、
小ささが喚起する「かわいい」現象についての政治的考察なのである。

なるほど。
確かにこの漫画はそう読める。
もっとも、『南くんの恋人』があれだけ支持されたのは、
「少女の偶然の不幸をめぐるメロドラマ」としても
よくできてたせいだと思うけどね。
内田春菊は、ぼくも好きな漫画家だけど、
こういうことをおそらく無意識に軽々と描けちゃうところにあると思う。
本人には生死にかかわる問題だったと思うけど、
ファザーファッカー』以降の小説の類はあんまり好きじゃない。
漫画を描いていれば一流なんだから、他のことに手を出さなければいいのに…
と思う典型的な人。


大島弓子についてはこう述べる。

大島弓子は機会あるたびに、記憶が薄れゆくはるか遠くの幼年時代が、
突然に出現した「かわいい」少年によって喚起され、
生気に満ちた現前として少女を幸福感で包み込むという物語を書いてきた。
閉じられた世界、秘密めいた内密性のなかでは、
すべての存在が対立を忘れ、
「かわいさ」のなかに溶解する。
だが、この幸福さの映像に満ちた三位一体
(注:ノスタルジア、スーヴニール、ミニアチュール)が、
歴史という観念を犠牲にすることによって、
はじめて達成されるものであることは、心に留めておく必要があるだろう。
イデオロギーとしてのノスタルジアが「かわいい」に訴えるとき、
何が与えられるかとともに、何が抑圧され否認されるかという問題を、
我々は忘れてはならないのである。

ここでは政治性に触れているけど、
これは「他者の不在」という事態にもつながると思う。
大島弓子の紡ぐ物語は、あまりにもよくできているため、
未だに熱狂的な信奉者を生み出していることへ
軽く冷水を浴びせているのだろう。


四方田氏は、最後の「エピローグ」で、強烈な問題提起をしている。
氏がアウシュヴィッツ収容所を訪れたとき、
その洗濯室に「かわいい」仔猫や子供たちの絵が描かれているのをみつけたが、
その際、
「ここには収容所の入口に掲げられた
「労働は自由への道(Arbeit macht frei)」という標語の、
さらに先をゆくアイロニーがあるように」感じたらしい。
それは、
「この事実を知った時、いかなる「かわいい」映像も
アウシュヴィッツの残虐行為と平行して存在しうる」ことを理解したため。
すると、「かわいい」概念とそれが提起する概念構造は
日本に特異なものではなく、世界的に通底するものなのか。
まあ、世界的なものだからこそ、
近年日本の「cawaii」が世界中で論じられているのだろうが――。
これ、もう少し読みたかったです。


感想として、非常に四方田犬彦らしい本。
サブカルサブカルだけで閉じるのでなく、
アカデミズムを含むあらゆる方面と結びつけて論じようとする
欲望に満ち溢れている。


本文内容にあわせて、著者紹介の写真がプリクラなのは
四方田氏らしいというかなんというか…。

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)