『心ときめかす』、四方田犬彦、晶文社、1998年

四方田犬彦は、ぼくが最も敬愛するもの書きの一人だ。


このブログをはじめてからもずっと読み続けてきたけど、
不思議と著作を紹介したことはなかった。*1
理由は簡単で、著作一冊をとてもまとめきれないからだ。


このブログには、大体その本なり作品を咀嚼して、
まがりなりにも自分の意見らしきものを綴ることにしているんだけど、
その方法に従うと、とても四方田犬彦の本を扱うことは出来ない。
情報量が多く、そして筆力も素晴らしくて
ぼく自身が上手く咀嚼することが出来ないからだ。


しかし、なんか意図的に氏の著作を取り上げないのは
崇拝しているみたいで気持ち悪いし、
氏の本は一度読んで終わり、というものでもないので、
もっと気軽に扱うことにする。


さて、この『心ときめかす』は、95年から97年にかけて、
氏が好きな対象について書いたものだけを選んで一本に編んだもの。
ちなみに、嫌いなものについての意地悪な文章は『けだものと私』だ。


面白かった話はいくつもある。
例えば……

ナショナリストとしての山田耕作
『ペィチカ』や『待ちぼうけ』は多分に政治的な歌である。
『ペィチカ』
雪の降る夜が楽しいという発想は、
当時飢えと貧しさに娘の身売りを迫られていた東北の農村地帯からは、
決して現れてくるはずがない。…


…この歌で歌われる「むかしむかし」とは、
ロシア人たち(白系ロシア人)がまだ革命で国を負われる以前の、
ツァーが帝国を治めていたころの
豪奢と贅沢に満ちた時代のことに他ならない。
つまり、この歌の背景には、満州へと続く日露戦争の存在があるのだ。

……山田耕作は音楽界において
もっとも華々しく軍国主義の尻馬に乗った作曲家として、
戦後まもない45年12月に年少の作曲家から糾弾された。
700近い全歌曲のうち、実に七分の一が戦争歌であるという事実と、
戦時中の派手派手しい行動からすれば、
あるいはこうした糾弾が生じるのも不思議とは思えない。
だが、個人的な挿話とゴシップの次元を超えたところで
楽家としての山田の全体像を、
20世紀初頭の日本の西洋音楽史、あるいはモダニズム文化史の、
より広い文脈の中で捕らえなおし、
その作業のうえで彼にとって戦争、ナチズム、満州といった
時代の現象がどのような意味を持っていたかを問いただす試みは、
まだなされていない。

とか。

他にも、
枕草子』がクリス・マルケルの『サン・ソレイユ』に影響を与えた話や、
「仮面への熱情――フェルナンド・ペソア」で
紹介されるフェルナンド・ペソアも魅力的だ。
ペソアの詩を読みたいがために
ポルトガル語を学びたくなってしまうほど。


また、「スウィフトの裔」で述べられる、
デフォー対スウィフトという対立の指摘も面白い。

なぜなら、これは

近代の資本主義の成長を謳歌し、
さながらその変容に身を重ねるようにして発展してきた文学

そこから意図的に距離を取り、近代への懐疑を抱きつつ、
悲嘆と罵倒とを交互に繰り返してきた文学

の対立とも呼べるからだ。
これ自体は有名な区分だが、
この小編では日本のスウィフトの子孫について述べられ、
興味深く読んだ。


そして、何といっても「ゴーシュと音楽の教え」。
宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の解読。
一つの作品に流れるいくつもの水脈を探り当てる行為は、
ぼくにとって何ものにもかえがたい快楽だ。
前から気にはなっていたのだが、
宮沢賢治には、まだまだ無数の水脈があるように思う。


最近は環境が変わり、本や映画を観る時間が少なくなり、
荒んだ気持ちでいることが多くなっているが、
こういう本を読むと気持ちが休まる。
忙しさにかまけ、自分を見失うことが怖い。
少しだけ自分を取り戻せた本だ。
……まあ、いつもの四方田本のように、
雑多な印象は免れないけどね。


心ときめかす

心ときめかす