待つことの悦び 3(四方田 犬彦)

ヨモタ先生の「待つことの悦び」3回目です。

四方田犬彦先生といえば、なんといってもその博覧強記に裏打ちされた硬質な簡潔な文章が魅力。

これからの2回は、まさにそのヨモタ節全開です。

 

 

 

待つことの悦び 3
 待つことについて、ぼくが知っているかぎりもっとも美しい物語は、今から二千年ほど前にインドで書かれた。それはこんな話だ。

 

 むかしビーシュマという剣の道に秀でた王子がいた。彼は父王に後妻を与えるため、その条件として天地神明に誓って生涯を童貞ですごすことを宣言した。これを聞いて感動した天上の神々は地上に花を撒き、およそ人間であるかぎりだれもビーシュマを倒すことはできない、という不死の躯を彼に与えて祝福した。

 父王の後妻が王子を産むと、ビーシュマはやがて王国を継承することになるこの弟のため、嫁探しの旅に出かけた。当時のインドでは、高貴の女性を手に入れるには、まず武術競技で勝利を収めなければならなかったのである。さる王室に赴いたビーシュマは、そこで開催された剣比べでみごとに勝ち抜き、弟のため三人の姉妹を得て帰還した。
 二人の姉妹はただちに弟との結婚を承諾した。だが、姉のアムバー姫だけは頑として首を横にふった。彼女にはすでにいい交わした婚約者がいたためである。ビーシュマはアムバーを彼のもとへ帰したが、武術競技の場でみごとにビーシュマに敗れた相手の婚約者は、けっして彼女を引きとろうとしなかった。わたしはどこへ行けばいいのか、とアムバーはいった。父王のもとへお戻りください、とビーシュマは冷静にいい放った。だが、ひとたび男のもとへさし出された高貴の娘がもう一度生家の門を潜ることは、当時まずかなわぬ相談だった。わたしと結婚してほしい、とアムバーはビーシュマに懇願した。心の底では、この高潔にして武勲に満ちた青年を深く尊敬し、またいつしか恋するようになっていたためである。
 それはできません、とビーシュマは答えた。わたしは永遠の不死を約束されたかわり
に、生涯女人を近づけず、子孫を残さぬことを神々に誓った人間なのです。彼はそう悲しげに説明したらアムバーの表情に嵐が走った。ビーシュマヘの愛は、一転して激しい憎悪に変わった。彼女は眼に紅蓮の炎を湛えながら宣言した。それならばわたしは世界中をめぐって、お前よりも強い武人を探しだし、お前の胸に剣を立ててみせる、といい放った。無駄なことです、人間はだれもわたしを倒せないのだから、と廃嫡の王子は寂しく笑った。
 それから幾星霜を経た。国々は乱れ、王家の子孫たちの間には争いごとが絶えなかった。次々と世代はかわったが、ビーシュマだけは相変わらずもとのままだった。いつしか彼は王家の威厳ある長老になっていた。王家を真二つに分裂させる戦争が生じると、ビーシュマは一方の総大将として采配をふるった。戦いはもちろんのことながら、不死の武人を戴いた側に有利に進んでいた。なんとか彼を倒す手立てはないだろうか、と敵軍の武将たちが思い倦んでいると、シカンディンという眉目秀麗なる少年が登場して、わたしが倒します、といった。わたしはビーシュマを殺すために、この世に遣わされてきたのです。実は彼はアムバーが転生した姿だったのである。
 ビーシュマに捨てられたのち復讐の鬼と化したアムバーは、インド中の森や洞窟を経廻って、腕のたつ武人を探した。だが、すべての探求はいたずらに終わった。歳月は流れていったが、彼女はいっこうに歳をとらず、いつまでも若い娘のままだった。憎悪が彼女に老いを許さなかったのである。地上にはもはや該当する男がいないと悟ったアムバーは今度は冥府に眼をつけた。みずから命を絶ち、魔道を下った。冥府の王は彼女の眼の炎を一目見て、その目的を察した。そしてさっそく彼女を美少年に転生させ、現世へ送り返した。
 シカンディンはビーシュマヘの憎悪を心に抱きつつ地上に生を享けたわけだが、自分ではその理由をついぞ知ることがなかった。もっともビーシュマの方はすべてを知悉していた。戦場でこの少年の勇姿を見たとき、彼はことのいっさいを理解したのである。これでやっと自分は終末を受け容れることができる、と彼は嘆息をついた。あまりに多くの悲惨を眼にしてきたおかげで、ビーシュマはすっかり生に厭きており、遠い昔に不死を約束されてしまった自分の躯を呪っていたからである。冥府より到来した者だけが、彼を倒すことができるのだ。
 わたしはお前を一生の間待っていたのだ。お前はわたしの死だ、とビーシュマはシカンディンに呼びかけた。お前は自分の本当の名前を憶えているかと。だが血気に盛る少年はこの言葉を聞く耳をもたなかった。ただ、眼の前の宿敵にむかって矢を射ようとすると、どうしても指が動こうとしない自分に苛立つのだった。いったい何が、この老人を射殺することをわたしに遮げているのかと、彼は自問した。その隙を抜って、かたわらにいた武将が矢を放った。矢は大きく両手を拡げていたビーシュマの胸に当たり、彼はそれをシカンディンの放ったものと信じて、満足のうちに倒れた。

 

 「マハーバーラタ」という大叙事詩に出てくる物語である。もう十年近く前になるが、ピーター・ブルック劇団の芝居ではじめてこの「世界最大の物語」に接して以来、ぼくにはビーシュマとアムバーの小さなエピソードが気になってしかたがなかった。ここには待つことと宥すことをめぐって、知恵がみごとに解かれているように思えたからである。
 不幸にして別れた二人の恋人たちは、ともに待つことを永遠に受け容れる。ひとりは憎悪によって、もうひとりは悔恨と生への倦怠によって。最後に、待つことはようやく成就される。
 シカンディンを支配しているのは憎悪である。もっとも彼は宿命においてそうなのであって、実のところ、彼はビーシュマに宥しを与えに行くのだ。不死であることは栄光である以上に苦悶であって、死の到来こそが慰めである、というのがインドの物語作者の立場である。ビーシュマは悦びをもって死を迎い容れる。


 笑うことが結局は死を笑うことであるように、待つこととは究極的にいって死を待つことなのだ。そして、この神々が戯れに行なった約束が反故にされ、二人の問の暗黙の約束が実現されるとき、愛情も、憎悪も、悔恨も、すべてのものがめらめらと燃えあがり、無に帰してしまう。
 彼らはお互いに宥しあったのだ。

 

 待つことには際限がない。というのも、目的のものが到来したとたんに、待つことは遠のいてしまって、ふたたび遠巻きにこちらを窺っているからである。
 待つことを止めることはできる。止めたと信じることもできる。だが、その瞬間から人は待つことの不在の亡霊にとり憑かれてしまうのだ。
 いかなる人間の待つことにも、ビーシュマのような宥しが与えられるのだろうか。

 

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

  • 発売日: 1992/03/16
  • メディア: 文庫
 

 

マハーバーラタ

その情報量に呆然とするしかない。

たしか、原典のあまりの長さに、完全な邦訳も完成していないはず。

三一書房の翻訳は、英語訳をさらに日本語訳した重訳で、ちくま学芸文庫の翻訳は訳者急逝のために8巻で未完のままとか。

 

マハーバーラタ〈第9巻〉

マハーバーラタ〈第9巻〉

  • メディア: 単行本
 

 

今回の四方田先生の文章は、説明力が素晴らしい。

この四方田先生の説明力のおかげで、わたしの知識がどれだけ底上げされたことか。

読んだ・観た気になっていた映画を、何かのきっかけで見直してみると、実際には読んだ・観たことがなかったことがよくあります。

ああそうか、これって四方田先生の本で知ったテキストだったのか、と。

 

ただ、このマハーバーラタについては、紙面の都合のせいか、取ってつけたような短いコメントが残念です。

おそらく、「待つこと」についても、その「悦び」についても、まだ書き足らなかったのでしょう。四方田先生、フィルムと書物を引きながら、もう一節「待つことの悦び」について書き加えます。