「待つことの悦び」4回目。これで最後です。
うんうん、これこそ四方田先生の随筆です。
書物はゆっくりと成熟し、死が覚えずして来るのを憧れる。
30年前くらい前のエッセイです。
待つことの悦び 4
あるとき人はあまりに長い間待っていたおかげで、自分が待っていることを忘れてしまう。何を待っていたか、ということではない。何かを待っているという事実そのものを見失ってしまうのだ。待つことと忘れることは仲のよい姉妹だ。待つことが苦痛であるとき、忘れることは魂の慰めである。忘れることが恐怖であるとき、待つことはただひとつの希望であり、心の支えだ。
デヴィット・ボウイが主演した『地球に落ちてきた男』というフィルムに、こういう場面があった。主人公の宇宙人はアメリカ政府に捕えられ、実験用の部屋に監禁される。彼は故郷の星にいる家族を救うため、一刻も早く脱出しなければならないのだが、その望みも虚しく恐ろしく長い歳月が流れる。あるとき彼がふとドアのノブに手をかけると、それは苦もなく開いてしまう。というより、ドアはもとから閉じられてもいなかったのだということが判明する。宇宙人は望めばいつでも外に出ることができたのだが、待つことに専念するあまりに、それに気付こうともしなかったのだ。
これはぼくが知っているかぎり、もっとも残酷な話のひとつだ。
忘れてしまったあとで、思いがけなくも待っていたものがひょっこり到来する。よくあることだ。一番理想的なかたちでの死の到来はそのようなかたちをとるものではないか、という思いがぼくにはある。
自分がなにかの間違いで、うっかり死んでしまうことができればいいと思う。だれかが電気のコードを足に引っかけてしまったり、アンペアを使いすぎて安全器があがってしまったりして、家中の灯がふっと消えてしまうことがあるが、そんなふうな死が一番いいような気がしている。ハイデッガーの哲学のように、死こそが人間の実存の最大の可能性だと信じつつ、死を片時も忘れず睨みつけ、ぎらぎらと油汗を流しながら死んでゆくというのは、たとえそれがいかに苦痛や恐怖から解放されたものであったとしても、性分に合わない。死はいつもぼくの背後に見えない形でありながら、さりげなくぼくを攫(さら)っていってくれれば充分なのだ。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
『徒然草』から引いた。(引用者注:155段)
兼好はさすがに人間をよく見ていたと感心させられ一節である。死は人間に直面して
対決を迫るように到来するわけではない。ずっと以前から後方に目立たぬように控えていて、こちらが忘れてしまったころにふっとやって来る。
昔から読みつけている書物というものをもっていてよかったなと思うのは、こういうときだ。高校時代には単に軽妙な機知と偏屈の人にすぎないと思っていた兼好が、心に深い悲嘆を湛え、しかもその悲嘆を冷静に見透す術をもった人物であると、だんだんとわかってくる。ぼくはこうした形で、書物がゆっくりと成熟するのを待っていたのだ。待っているものがわかったとき、待つことの半分はすでに成就されている。では、それならば、何を待っているのか忘れてしまったときにこそ、人はまったく待つことのさなかにあるのだろうか。
恩寵、という言葉がもう少しで口から出ようとしている。けれども神秘家ではないぼくは、額に何の慰めもなく、いつまでも待ち続けなければならない。すべてを忘れてしまう瞬間が来ることを。
『地球に落ちてきた男』って、こういう話でしたっけ?
これじゃまるで、カフカの「掟の門」じゃないですか!
このフィルム、わたしの記憶では、フォトジェニックなデヴィッド・ボウイの魅力を讃えたPVのようなものだったような……。機会があったらまた観てみます、と書こうと思いましたが、おそらくその機会は来ないでしょうね。amazon プライムにも入ってないし。
わたしの人生も、折り返し地点を過ぎたことを自覚しています。読みたい本、観たいフィルム、聴きたい音楽から始めないと、手つかずに終わってしまうかも。……こういうガツガツした気持ちがあるうちは、「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」なんて境地には、まだまだ到達できませんね。
これこそ、トイレや車の中に置いておいて、無作為に開いたところをなんとなく読む。そんな風に付き合っていきたい本。 繰り返し読むことに耐えうるテキストです。
最近思うのは、親が子に伝えるべきなのは、ある芸術作品の「内容・価値」ではなく、その芸術作品との「付き合い方」なのではないか、ということ。
音楽史におけるビートルズの革命的な意義を言葉でぐだぐだと述べるよりも、BGMとして常にビートルズが流れている方が説得力があるし、家の車には、なぜか『徒然草』と『方丈記』が置いてあった、という方が話として面白いし、こどもの心に残るでしょう。
そんなことを考えています。
さて、「待つことの悦び」四方田先生の随筆を引きながら考えてみましたが、実は、よくわかってないんです。「待つこと」もその「悦び」も、実はまだうまく自分の中に入ってこないまま。でも、まあ、これはこれでいいのかな、と。そのうち実感できる「知」としてやってくるでしょう。今回のこれは、そのときのための準備だったのだと。
この年になってようやく、そういう「知」の構えの意義がわかるようになりました。
今わからないこと、実感できないことは、無理にわかろうとせず、異物感が残るまま取り込んでおく。文化的な成熟度とは、異質なものへの寛容度に比例する、これも真実です。
コロナ禍の中、そんなことを考えた連休でした。