今日は例文たくさんです。
この「お…さん」は意識したことなかったなあ。
お弟子さん
折口先生に私は、お会いしたことがなかった。遠くから、お姿を見かけたこともない。にも拘わらず、お弟子のはしくれみたいな気がしているのは、お書きになったものを通してお世話になっているからで、先生の場合、そういう「お弟子」は多いのではないかと思う。
(白洲正子『ひたごころ』)
注意すべきは、「お弟子のはしくれみたいな気がしている」と、自分に「お」をつけているのは他の弟子たちを考慮してか。しかし、弟子が一人であってももこの「お」がなければ不遜な感じがします。とするとこの「お」は先生に対する「お」なのか。次の場合も同列だろう。
先生のお仲間に入れていただけませんでしょうか。
『笑点』を見ていると、林家木久扇師匠は自分の弟子に必ず「お」を付ける。しかも「さん」づけだ。これはどういうニュアンスがあるのだろうか。
私の所にいま前座さんのお弟子さんが3人いるんですけど。
起床しましたら、洗面をして、お弟子さんたちと挨拶をしてラジオ体操をやります。
(林家木久扇『ゆうゆう』)
やはり、これも「弟子」だけでは偉そぶった感じがしないでもない。
このように自分の弟子に「お」をつける人は多い。
私の赤いキッチンに、白いカーネーションと一緒に飾りました。いつも家族やお弟子さんたちと集うこのキッチンに、陽気で可愛らしい花を温かい料理を作るような気持ちでいけることも多くなりました。
今後は自宅で後進の指導に当たる。「二葉百合子から本名の大村百合子になって、私が持っているものを全部、お弟子さんたちに引継ぎたい」と力を込めた。
(京都新聞)
師匠にとっては、家族も弟子も同じ位置にいるはずです。自分の家族をソトの人に引き合いにだすとき「お父さん」とするのは間違いであるように、ウチなる自分の弟子を「お弟子さん」というのは私には違和感がある。
次の例はすこし説明が必要。話者は生け花の池坊流次期家元。したがって相手が88才の年上であっても自分の門下にいる先生は話者にとっては弟子だ。「研修に来ている」と敬語を使っていないのもそのため。そこから弟子に「お」もつけていないのだろう。
88才の先生が、京都の本部に研修に来ている。弟子もたくさんいながらもっと上手になりたいと言う。異なる世代のクラスメートに、混じりながら、しっかりノートを取り勉強する。
つぎの「弟子たち」も何の違和感もない。
英国ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館での陳列には思い切って弟子たちと一緒に渡英した。
(下出祐太郎 下出蒔絵司所三代目)
次の使い方はどうだろう。
師匠の毅然とした姿が浮かんでくる。
毎日、寝る前に1枚は(飼っている)ネコの絵を描いていますね。教え子にも言っていますけど、同じモチーフをスケッチブックに毎日書き続けていたら、最初のページと最後の絵は全然違う。そういうものなのです。
「教え子」には「お」をつけると「お教え子」とおが重なるので、言いにくいという言語的事情はあるが、さんづけしていないことからもわかるように、追従を許さないプロはやはり毅然とした言葉づかいをしている。
大学教師が教えている学生を公の場で引き合いに出すとき「さん」を使うのも同じく私には抵抗がある。教える者と教えられる者の権力構造を言っているのではなく、あくまでも私だったら使わないだろうという感想です。
ゼミナールでは学生さんに、(中略)注意して読んでもらうと、面白いことに、それまで概してあたりさわりのない感想を返していた学生さんが、記事に対してずばずばと厳しい批判をしてくれる。
もうひとつ、この文章中の「してもらう」「してくれる」も私には違和感があります。教授が講義内容を新聞で語るときはかなり強い公共性をもつと思うからです。 でも昨今は大学も企業並みの経営努力をしているのが実情ですから、選んで来てくれる学生は「お客さん」にちがいありません。
最後に「さん」ナシの文章を。
毎週一回来てくれるお手伝いが、傷んだ煮凝(にこご)りと間違えて捨ててしまったのです。
(向田邦子『眠る盃』)
これを快いと感じますか。偉そぶっていると感じますか。
そういえば、『スターウォーズ』では、ジェダイの弟子を「パダワン」と呼んでいました。これ、絶対に「おパダワンさん」なんて呼ばないだろうなあ、ゴロが悪すぎるから。