結局、安西先生のこの1コマに集約するのではないでしょうか。
あきらめなかった その一
今の世は不透明で、就職難など、私たちが歩んできた道とは違い、困難極まりない。しかし、努力すれば道は開けることを信じて、頑張って突き進んでほしい。
(投稿 箱田博治 (69) 京都新聞 2011.1.7)
と書いておもむろに筆を置き深く満足の吐息を漏らす人は蹉跌を知らない人なのだろう。でも「努力すれば道は開ける」は裏を返せば、道が開けない人は努力が足りないという意味にもとれる。
このような物言いは特にスポーツ、記録や優劣を競う場合にしばしば声高に語られる。たとえば、「優勝できたのはゼッタイに諦めなかったからだ」。これでは、(理屈の上では)敗因の一つに少なくとも、敗者は諦めたということにならないか。決して諦めなかったが負けてしまった敗者はどう語ればよいのか。矛と盾のように矛盾しているのではないか。
終盤に逆転勝ちする碁が多かった。(中略)逆転できるのは「まだ負けが決まったわけではない。少しでも可能性があるうちは、全力を尽くそう」とあきらめない気持ちが、人より強いからだと自己分析する。
これなら理解できる。
世界の強豪を相手に全試合をまさに死力を尽くして戦い抜きついに優勝トロフィーを獲得したなでしこジャパンの姿は、世界に勇気と感動を与えました。澤選手が決めた劇的な同点シュートに、最後まであきらめないことの大切さを実感した人も多かったことでしょう。
(開成教育セミナー2011夏季チラシ)
その通りだ、私も頑張ろうと思ったのだが、だがしかし、相手チームのキーパーだって諦めたはずはない。彼女だって「最後まであきらめな」かったはずだ。ではその光と闇の差は何がもたらしたのだろうか。その答えが、仮に、技術の差・能力の差であるなら、
最後の大会は負けてしまったけれど、最後まであきらめませんでした。
(投稿 坂井夕莉 15 京都新聞2013.9.25)
と唇を噛む敗者には、「最後まであきらめなかった」はどういう意味を持つのか。
勝利に届かなかった理由が「技術の差・能力の差」であるならば、なおさらあきらめないことは意味があるのではないでしょうか。
事態を改善すべく必死に努力すればするほど、相手との実力の差が明らかになり、自分に足りない部分が見えてくる。それこそ自分の伸びしろであり、目前の相手はその伸びしろを達成した教科書。今後の自分の成長にとって、最高の先生です。
また、学生時代の部活動などで、それがその人にとって最後の試合だったとしても、その教訓はその後の他の分野に活用できるでしょうし、「最後まであきらめない」その姿勢は、必ず後輩に伝わっていくのではないでしょうか。
少なくとも、私はそう信じています。
このテーマ、続きます。