「misreading がmisleading を導く」のかもしれません。

多くの場合、misleading な表現や文章は、書き手の無知によるものではないでしょうか。「無知がmisleading を導いている」のかもしれません。

  

misleading も misreading も罪である  

数年前の新聞の記事から。フリーライターの投稿です。  

ドイツに続いてイタリアも「脱原発」を選択しました。先日の国民投票で、9割以上の人が原発に「ノー」の判断を下しました。かの地の人たちは、インタビューで「日本の原発事故で怖くなった」と答えています。

(奥田佳輝 70歳 京都新聞2011.7.6)

 

このように書くと、読者はある方向に引っ張られてしまいます。「9割以上の人」が問題なのです。短絡的にイタリアの国民の9割以上と思い込んでしまいます。そうではなく、「投票した人の」9割以上です。「国民投票」の文字はありますが、その投票率には触れていません。別の報道によると投票した人は全国民の5割を超えた数字だそうです。つまり国民の6割に満たない人たちが投票に行った。その9割が原発反対に票を投じたというのが事実のようです。それを「国民投票で、9割以上の人が原発に『ノー』との判断を下しました」と書くのはmisleadingではないでしょうか。文面からは、ライターにその意思があったかどうかはわかりません。文章を書く場合はもちろんのことですが、読む場合も文章に潜む闇を切り開く鋭い眼光が必要です。

  

一時期、わたしもこの misleading と misreading が気になったことがありました。 というのは、会話で「ミスリーディング」と言った場合、どちらを指すのか一瞬わからないので、すぐに「あ、『r』の方です、間違って解釈する、という意味の方ね」などと補足していました。

これはいちいち煩わしいなあ、と思って、そのとき考えたのが、訳語の徹底。すなわち、misleading は「誤導」、misreadingは「誤読」とすぐに言い換えて誤解を防ぐ方法です。いまでも続けていますが、なかなか浸透しませんね、これ。概念として重要な違いがあると思うんですけど。

 

で、今日の本題。

世の中には misleading な表現や文章が溢れていますが、その書き手には悪気があるわけではないのでしょう。書き手自身、誤って覚えていること、あいまいな知識を開陳してしまっている場合や、気が回らなかったせいで誤解を招く表現になってしまっている場合がほとんどなのではないでしょうか。

 

そういえば、哲学者の中で、もっともmisreading され続けてきた(され続けている?)のがニーチェニーチェほど、時代、国、文化圏によって評価が異なる哲学者はいません(そして、どの文化圏でもほぼ好意的に受容されていることも興味深い)。

専門課程に入ったとき、先輩に「君は誰のニーチェを読んだの?」と訊かれたことは、いまでもよく覚えています。

この本、読んでみたいけど、いまのわたしに英語でも洋書は厳しいなあ。

 

misReading Nietzsche (English Edition)

misReading Nietzsche (English Edition)

  • 作者:M. Saverio Clemente
  • 出版社/メーカー: Pickwick Publications, an Imprint of Wipf and Stock Publishers
  • 発売日: 2018/07/30
  • メディア: Kindle
 

 

というわけで、半ばゴミ置き場と化した書斎の深い地層から、この本を引っ張り出してきました。パラパラ読み直してみることにします。 

 

ニーチェ思想の歪曲―受容をめぐる100年のドラマ

ニーチェ思想の歪曲―受容をめぐる100年のドラマ