『文明の憂鬱』、平野啓一郎

文明の憂鬱 (新潮文庫)

文明の憂鬱 (新潮文庫)

「記憶と距離」
 かれこれ一〇年以上も京都に住んでいる割に、わたしの普段の生活は、そう大して風情のあるものでもなく、花鳥風月を愛で、四季の移ろいに心を動かすのとは違って、どちらかというと、時間に追われる殺伐としたしろものなのですが、それでもこの時期に鱧でも食べると、ああ、もう初夏だな、という気がしますし、その鱧を食べた、ということのために、記憶の中に、あの時あの人に会ったのは、そうか、ちょうど今頃の季節だったんだなと、忘れかけていた光景が蘇ってきたりします・

これで一文。
文藝春秋』に掲載された文章だから意図的に冗長にしたのかもしれないけど、
ちょっと長すぎるんじゃないかな。
読点の打ち方も気になるし、悪文の典型のような文。
少なくとも、わたしはこういう文は書きたくない。

もっとも、ではこの文を読んで意味が伝わらないかというと、
ここが不思議なところで、すんなりと言いたいことは伝わってくる。

でも、こういう書き方は個人的に嫌いなのです。
そのためだけのメモ書き。