『言の葉の交通論』、篠原資明、五柳書院、一九九五年


美学・芸術学専門だけあって、篠原先生は雰囲気のある先生という評判だった。
一度講義を聴きたかった先生。


講談社の「現代思想冒険者たち」シリーズでは「ドゥルーズ」と「エーコ」を担当していて、読者層を初心者を対象としていたせいかあまり面白くなかった。で、この本もあまり期待しないで読んだのだけど、これは勉強になりました。マニアックなイタリアものや美学については初めて聞く名前も多くて得るところ多かったし、ベルクソンについての解説が非常にクリアで、ベルクソンについて私の頭の中が整理された。


特に、マクルーハンまで遡り、マラルメジョイスエーコと辿っていく「書物の変貌」や、ドゥルーズプルーストベルクソン、そしてボルヘス夢野久作にまで絡めて考察すめる「時間と物語」は秀逸。サクッと読んで本棚のスペースを空けようかと思ったけど、残留決定。まだまだ勉強できる本です。


東大の駒場と本郷じゃないけど、東一条の北側と南側にはちょっとした文化的な境界線があった。そのせいで、総人の講義を積極的にあまり聴きにいかなかったことは個人的にちょっと後悔している。


ただ、この本で大々的に提示されている「交通」という概念がまだよくわからない。
私の理解が浅いせいだと思うが、あえてこの言葉を使う必要あるのかな、というのが今の感想。
新しい言葉や概念を創るのときは慎重にならなければいけない。以前、卒業論文の中間発表を行ったとき、担当教授に「この言葉の意味がよくわからない。この言葉、哲学ではあまり耳にしない言葉だけど、使う必要あるの? もし君がこの言葉を使いたいなら、この言葉を君が連れてくるくらいのつもりで、その意義と概念を積極的に提示しないと」と言われたことを思い出す。確かにその通りで、研究というものは誰か一人の手で行われるものでなく、先人の蓄積を利用し、自らもその蓄積の一部となっていくことなので、その共通語のルールを乱すべきではない。これまでの言葉で説明できるなら、これまでの言葉で説明すればいい話なのだ。


以下、面白かった箇所。



・引用について

…しかしあくまで過去のものを引き入れるべき現在の言語表現が、それなりに独自のものでないならば、引用がよってくるはずの痕跡過剰のうちへと引きずり去られてしまう危険が、絶えずつきまとうだろう。
 だからこそ、まさしく引用の技法としての本歌取りの立役者だった藤原定家は、本歌からの引用を五七五七七全五句中の二句プラス数文字までとし、三句まで取ることをいましめたわけだ。また、本歌の属する時期を、ある程度(7,80年)以上昔のものである必要があるとしたのは、引用認定の基準を考慮した証として、重要である。

ベルクソンについて

時間、それこそがベルクソン哲学のかなめであり、またそれこそ、この哲学が、あれほど多くの多くの人たちを引きつけた当のものであったことは、あらためて指摘するまでもあるまい。真の時間としての持続を実在そのものと見なすことによって、時間を永遠の堕落した形態としか見ようとしない古代的な思考様式と決別しただけでなく、時間そのもののうちに自由の根拠を見ることにより、この哲学者は、時間を決定論的な必然性の側に置こうとする近代的な思考様式とも決別したのである。

プルーストベルクソンは姻戚関係にあり、その主題も非常に似通っている。プルーストベルクソンの義理のいとこであり、結婚式には新婦付き添い役までつとめた。

マクルーハンについて

活字印刷は、「線状的な画一性」と「断片的な反復可能性」を強調する。このような条件に裏付けられてこそ、一方に広範な読者層が形成され、他方、その読者層に単一の視点を押し付ける作者が登場したとされるのである。作者にとって、大量生産される書物は、読者に声高に押し付けるための拡声器となるわけだ。
マクルーハンの主張の骨子は、印刷本が生み出したこのような状況が、いまや危機に瀕しているという点にある。

・「印刷術」…「機械技術」。身体の一部、感覚の一部を拡張する。外爆発。
「テレビ」…「電気技術」。中枢神経系を拡張する。内爆発。
 また、印刷術は国民文学の発生をもたらした。
→「新聞」…電気の内爆発が印刷術の世界に闖入した。紙面はモザイク構造でつくられるているのは象徴的である。

ペトラルキズム…複雑な文法構造、凝った比喩表現、様式化した詩語法
ゴンゴリズム…(= euphuism)16−17世紀に英国で流行った気取った華麗な文体
・「バベルの図書館」(ボルヘス) …「無限を宿した書物」
儒教の世界観…「天・地・人」、道教の世界観…「天・地・水」
・詩的言語についての説明 … ヴァレリー詩学ヤコブソンの言語学が参考になるか?


言の葉の交通論 (五柳叢書)

言の葉の交通論 (五柳叢書)