『花のデカメロン』、阿刀田高、光文社文庫、1990

『言の葉の交通論』でちょっとイタリアづいたので、今日はこんな本を。

ボッカチオ『デカメロン』の紹介本。
阿刀田高には旧約・新約聖書ギリシア神話アラビアン・ナイトを紹介したシリーズがあり、この本もこれに連なる一冊。ただし、「紹介」といっても、あくまで小説家の立場から読み、物語として面白いかどうかを述べるレベルで、決して解説ではない。プロットが面白かった、男と女の話は今も昔も変わらない、といったことをひたすら垂れ流す本。紹介されている話も抜粋だし、入門書の入門書として、時間つぶしには適しているかも。



阿刀田高は親が好きで、小学校高学年〜中学校の頃に短編集をよく読んだ。が、この年になって読んでみて気になるのは、その深みのなさ。文体は達意の文章であり、読んでいて苦になることはないが、もう少し読んで得るものが欲しかった。




それと、この本で決定的に気になったところを一つ。
阿刀田高は、『デカメロン』に収録されている話は大部分が色恋物で、プロットが「現代の目から見て」稚拙であると述べている。この時代は科学技術も未発達で、文化的に熟していなかったから仕方がない、という姿勢である。でも、これはどうなんだろう。時代・地域が異なればパラダイムが異なっているのは当たり前の話なので、それが異なっているからといって、簡単に「稚拙」と表現してしまっていいのだろうか。




何もいちゃもんを付けたいわけではないのだが、この一節は、阿刀田高にとって小説を評価するポイントが図らずも表れてしまっているところだと思う。つまり、「小説はプロットが命。」何もそれが悪いといってるわけじゃない。ただ、私はプロットは作品の一要素に過ぎないと思う。小説家でなくて研究者なら、当時の政治状況などの時代背景や、登場人物や小道具の文化背景(名前に込められた意味とか)を考え、そこに深い寓意を読み取ることに面白さを感じると思うのだけど…。そして、エーコのように、批評と創作を同時に行う活動も可能だと思うのだけど…まあ、阿刀田高はそういう作家じゃないということか。



以下、勉強になったところを。

(巻末、千種堅「解説」より)
デカメロン』の作者、ジョヴァンニ・ボッカチオが活躍した十四世紀はイタリア文学の黄金時代であり、この時期のイタリアはダンテ、ペトラルカ、ボッカチオを輩出した。この時期、世界文学全体を見回しても、この三人をしのぐような大きな存在はいない。せいぜい世紀末になってイギリスのチョーサーが出てくるぐらいだ。だが、十五世紀以降は様変わりして、イタリアは影が薄くなり、イギリス、ドイツ、フランスにその地位をゆずり、二十世紀後半まで眠りこけることになる。

夫の留守に隙を狙ってきた王に対して、めんどり尽くしの料理を出し、「料理と同じようにどの女も同じもの」とほのめかす貞淑な妻の話。

骨かくす皮にはたれも迷いけり 美人というも皮のわざなり

ラカン…「堕落幹部」の略。

・イギリスの箴言
一日だけ幸福になりたければ床屋に行け。一週間だけ幸福になりたければ結婚しろ。一ヶ月なら馬を飼え。一年なら新築しろ。だが一生幸福でありたいなら正直な人間になれ。

慇懃(を通ずる)
《「史記」司馬相如伝から》男女がひそかに情交を結ぶ。

花のデカメロン (光文社文庫)

花のデカメロン (光文社文庫)