こういう風に、日常の言葉に対して素朴な疑問を抱くところから、ことばのセンスは磨かれていくのでしょう。
見迎え
「見送り」があるのだからその反意語の「見迎え」もあるだろうと期待して、いくつかの国語辞典を開いて見たが出ていない。
ところが、何たる僥倖! 図書館で借りた寺田寅彦『柿の種』を読んでいたら、出会って、びっくり邂逅。
犬のジョンだけは相変わらずいつものどかないさましい姿をして顔なじみの僕の通るのを見迎え見送るのであった。
こういう偶然の出会いは心から嬉しい。
これで「出送り」の例が見つかれば、「見迎え」「見送り」「出迎え」「出送り」の四役揃い踏みとなるのだが、この「出送り」はミッシングリングなのか、もともと存在しないのか。
そして、こういう疑問を偏執狂的に調べていくのが系譜学。
インターネットで情報が自由にアクセスできる時代だからこそ、自明のものとされている考え方・評価について、その歴史や正当性を整理する必要がある。
最近はそんな事を考えています。