『養老孟司の』、養老孟司、PHP新書、2003

[book]『養老孟司の<逆さメガネ>』、養老孟司PHP新書、2003年

養老孟司の“逆さメガネ” (PHP新書)

養老孟司の“逆さメガネ” (PHP新書)

バカの壁』に便乗した、養老先生の語り下ろし本。

読んでるときは楽しいし、勉強になるところや、
発想・考え方で刺激をうけるところなどいくつもあるのだけれど、
ずっと本棚において置く本じゃないかな。


刺激を受けるところというのは、たとえばこんなところ。

知のあり方が変わった


浪人中(引用者注:東京大学医学部教授から北里大学教授職へのブランクのこと)は、若い世代の書くものを勉強しました。香山リカさん、官台真司さんといった世代です。そこまで下りないと、話がわからなかった。こうした人たちのいうことを吟味していくと、私なりにわかることがあります。


まず第一に、知るということの意味が、根本から変わってしまったらしい。いうなれば、知るということがまさに技法、ノウハウに変わったんです。


この話はなかなか面倒です。なぜなら世の中の常識の変化だからです。常識はじつは意識されずに変わります。だから老人は気がつかないで時代遅れになるし、若者は無意識に変わっているから、その説明が十分にはできません。それが世代のズレです。


現代の「知ること」、その大前提はなにかというと、自分は自分だということです。自分が自分だということは、自分は本質的には変わらないと信じることです。変わらない自分がものを「知る」とするなら、それは変わらない自分に知識が付け加わるわけです。データベースが増えるということです。それなら知は技法でいい。その知識をいかに取り入れるか、それは技法だからです。


ところがこっちは医者だから、たとえばガンの告知問題を議論するわけです。紛争の頃なら、看護婦さんや若い医者が、患者さんにガンの告知をすべきか否か、議論しているわけです。そういうときに、私はバカなことをいうんじゃないっていう立場でした。


どういうことかというと、「あなたガンですよ」といわれて、自分の寿命があと三ヵ月しかないということを、本当に納得したとき、いま咲いている桜が違って見えるわけです。来年の桜はもはやない。ところが桜自体は同じ桜です。その桜が違って見えるのは、どういうわけかというなら、自分か変わったということです。同じ桜なんだから。


知るということは、本質としての自分も変わるということです。それを大げさに表現するなら、自分が別人になる。若い世代には、その感覚がまったく消えたということでしょう。自分という確固とした実在があって、それに知識が積み重なっていく。それはコンピュータの中にデータが蓄積されるのに等しい。いまの若者は、暗黙のうちにそう思ってるんだなと思いました。若者がそうなったのは、むろん大人の「常識」がそうなったからです。


私にとって大学がおかしくなったように思えた理由の一つは、それではないかと思いあたりました。習うほうの学生が、自分が変わっていくとは思っていない。それでは教育になりません。育つというのは、変わるということじゃないですか。教育の「育」は「育つ」ですよ。それを、コンピュータの容量が増えると思ってるんじゃないんですか。それでは「育たない」。そこが非常に問題だということに気がついて、以来いままで七年間、なぜそうなるかをさらに考えてきました。

…やっぱり面白いなあ、この本。
もう一度読んでから売ろう。