- 作者: 田辺聖子
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川書店
- 発売日: 1987/01/01
- メディア: 文庫
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映画があまりにも素晴らしかった ので、小説も読みたくなって購入。
しかしこれ、結構脚色してあるね。
小説は小品としてまとまっていて、読後感も悪くない。
エゴと愛情が多重的に描かれる映画とは印象がずいぶん違う。
この小品からああいう脚本を書いた渡辺あやはすごいな。
『メゾン・ド・ヒミコ』は知ってたけど、『約三十の嘘』も脚本書いてたんだ。
田辺聖子は、この短編集が初体験。
朝ドラの『芋たこなんきん』がなかなか面白かったからちょっと期待してたんだけど…
…うーん、「女」の世界ですね。
なんというか、30代(以降)の女の性の世界に圧倒された。
田辺聖子は女性が読む本だなあ、というのが素朴な感想。
楽しめたけど、わたしはもういいです。
「ジョゼと虎と魚たち」のタイトルの由来がわかる箇所を引いておく。
「ジョゼ」はサガンの主人公の名前から。
「虎」について。
友人に片っ端から電話をかけ、車を借りてジョゼと車椅子を積んだ。
ジョゼはむっつりしている。
「どないしてん。いややったら外へ出んでもええねんデ。家に居ててもええねん」
「ちやう。嬉しすぎて機嫌悪なってんねん」
恒夫は笑ってジョゼにキスする。ジョゼを見てると、外出するより、鍵をかけてまた寝たくてたまらなかった。繊(ほそ)い人形のような脚のながめは異様にエロチックで、そのあいだに顫動している底なしの深い罠、鰐口のような罠がある。恒夫はそこへがんじがらめに括りつけられたように目もくらむ心地になる。
ジョゼが連れていって欲しい、といったのは動物園だった。前にいっぺん施設にいたとき、ボランティアの人々につき添われ、バスで出かけたが、時間に制限があって、鳥類と猿が島と象舎だけしか廻れなかった。動物園は広すぎるし、障害者たちは疲れやすいのだった。
ジョゼは「虎を見たい」といった。
恒夫は車椅子を猛獣舎へ押していった。はじめて春らしい日ざしになったせいか、平日なのに思ったより人は多い。ジョゼは虎を見て、思った通りだと気に入った。虎が猛獣特有のしぐさで、檻の中を飽くことなく行ったり来たり、を繰り返すのに見とれていた。その抑えつけられた兇暴なエネルギーを思わせる、物狂おしい黄色い虎の眼、それがジョゼにそそがれると、ジョゼは怖ろしさで身震いする。そのくせ、怖いもの見たさの好奇心が強い。
虎は、行ったり来たりの運動を止め、ジョゼの前で停まる。ジョゼの胸は、息苦しいまで恐怖と不安にたかまる。やがて虎は、その一打ちで象でも倒しそうな力強い前肢で、コンクリートの床をやるせなげに叩き、身もだえして咆哮した。
黄と黒の強烈なまだらの毛は、虎の動きにつれて陽に輝く。ジョゼは咆哮を聞いて失神するほど怖かった。恒夫にすがって、
「夢に見そうに怖い……」
「そんなに怖いのやったら、何で見たいねん」
「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうない、思うてたんや」
最後に「魚」。
恒夫はため息をついてまたジョゼを連れ出す。どっちみち、ボーイの介添えが要った。水族館は地上からいうと八メートルも底にあり、長いコンクリートの階段を下りていくのだった。ボーイが後から車椅子を持ってついて来てくれた。
突然、まわりには仄明るい光がみちた。車椅子にジョゼを乗せてボーイが去ると、その海底に、恒夫とジョゼは二人きりになった。周囲も頭上もガラスをへだてて、海水の碧色が透けていた。海藻のゆらぐ中を、コバルト色の小魚が縞をなして群れ、鮮やかに赤い魚がすりぬけていった。
底の砂地に、ウツボや蟹、蝦、亀の匍っているのも見られた。恒夫の靴音と車椅子のきしみだけが反響して、ほかに客はいないようであった。長大な、銀と青の魚が、ゆっくりと目の前を横切っていった。ハマチだった。
珊瑚礁に腹をかすめるようにして、カンパチや黒鯛、ハタ、ドチ鮫が目交を過ぎてゆく。
魚たちの眼は乾いて、人間の顔に少しずつ似ていた。
「ほー、はるばると見に来た価値はたしかにあるなあ。おもろい」
と恒夫は単純に面白がっているが、ジョゼは声も出なかった。ここにいると昼か夜かもわ
からず、海底に二人で取り残されたように思う。ジョゼは恐怖にちかい陶酔をおぼえて、幾めぐりも幾めぐりもした。ついに、しびれを切らした恒夫に叱られて、水族館の切符売場の女に、フロントのボーイを呼んでもらい、また地上へ背負われて上った。階段を登り切った恒夫は息を切らしていた。地上には明るい夏の陽光と、おみやげ物の店が鼻先にあり、潮の香があたりにみちていた。二人はそこのパーラーで冷たいコーヒーを飲み、また部屋へあがった。食事は特別に頼んで、部屋へ運ばせた。
夜ふけ、ジョゼが目をさますと、カーテンを払った窓から月光が射しこんでいて、まるで部屋中が海底洞窟の水族館のようだった。
ジョゼも恒夫も、魚になっていた。
――死んだんやな、とジョゼは思った。
(アタイたちは死んだんや)
恒夫はあれからずうっと、ジョゼと共棲みしている。二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。
ジョゼはそのままでいいと思っている。長いことかかって料理をつくり、上手に味付けをして恒夫に食べさせ、ゆっくりと洗濯をして恒夫を身ぎれいに世話したりする。お金を大事に貯め、一年に一ぺんこんな旅に出る。
(アタイたちは死んでる。「死んだモン」になってる)
死んだモン、というのは屍体のことである。
魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るか分らないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。
(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった――)
と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。ジョゼは恒夫に指をからませ、体をゆだね、人形のように繊い、美しいが力のない脚を二本ならべて安らかにもういちど眠る。
はあ、これを書いてたら映画のことを思い出してきて胸が苦しくなってきた。
やっぱりあの映画は奇跡的です。