『脳の見方』、養老孟司、ちくま文庫、1986

20年以上前のエッセイ集。
養老孟子の文章の魅力は、江戸っ子のような潔い語り口、嫌味のない悪口や自己韜晦だと思う。
例えば、こんなフレーズ。

…世の中には、書物を読む人と、読まぬ人とがある。
読まぬ人は、それでよろしい。
健全な精神を作るには、学問はあまり必要ではない。
書物を読む人は、書物の世界を発見する。
それは結構だが、せっかく見つけたからというので、見つけたものにこだわる。

中国人は何でも食べる。美味なら食物とする。
まずかったらどうするか。もちろん、薬にする。

唯脳論』からの読者なのでそんなに長く付き合っているわけではないが、
「外れがない」、と安心して読める書き手の一人である。

本書は『バカの壁』のブレイクのはるか前のエッセイ集だが、
本書に収録されている「哲学と理解」というコラムに、「馬鹿の壁」という考えが登場する。

ものが理解できない状態を、私は「馬鹿の壁」と呼ぶ。数学は、私の「馬鹿の壁」に突き当たって敗れた。
「馬鹿の壁」こそ情報化時代の最大の難点である。

自然科学も、いまや「馬鹿の壁」に突き当たってしまった。他人の仕事を聞いても、ほとんど理解できない。
学会では、居眠りする人が増える。
むずかしいことを勉強するのはいいが、それは同時に、落ちこぼれをつくることでもある。
学問が高級化するほど、落ちこぼれは増える。
…哲学はかつて一度、意識せずして「馬鹿の壁」に挑戦し、一敗地に塗れた。捲土重来を期す。
それが、哲学に対する期待の中に、無いとは言えまい。


私が、哲学に試みてもらいたいのも、まさしくそれである。
つまり、「馬鹿の壁」を何とかすることである。
それは医学の問題だ、とボールが帰ってきそうな気もするのだが。

もちろん、これはベストセラーの『バカの壁』の着想だ。
20年後と同じく、「馬鹿の壁」は、相互理解を妨げる障害であり、
除去すべきものと考えられていることを記しておきたい。
流通しているような、理解不可能なものに対する「言い訳」として使われているのではない。
バカの壁」のヒットの原因は、
他者への無関心という根強い日本人の性向があったように思うのだがどうだろう。


まあ、そういったことは別にして、このエッセイも秀逸。
というか、語り下ろしのあの新書で語られていることは、
このエッセイだけで延べられ尽されているのではないか。


モンテーニュについて述べているのもいい。

モンテーニュの引用)
「事物を解釈するよりも、解釈を解釈する仕事のほうが多く、
どんな主題に関するよりも書物に関する書物のほうが多い。
われわれは互いに注釈しあうことばかりしている」


「われわれは他人の知識で物職りにはなれるが、少なくとも賢くなるには、
われわれ自身の知恵によるしかない。」


「なるほど書物は楽しいものである。けれども、もしそれとつき合うことで、
しまいにわれわれのもっとも大事な財産である陽気さと健康を失うことになるなら、
そんなものとは手を切ろう」


この人は原稿を書いて暮らしを立てていたわけではないから、書物に利害が薄い。

 …やっぱりいいなあ、モンテーニュ養老孟司の解説も面白い。

もちろん、専門分野についても面白い。
特に、意識については、学生の頃に読んで深く納得したのをよくおぼえている。

物質と意識
…ここが、昔から理科と文科のもめごとの種である。
神経細胞が興奮する、抑制される。そのどこから、いったい意識が生まれるのか。
意識の世界は、きわめて明瞭に、あるいは明瞭というもおろかなほど、
神経細胞の科学的、あるいは電気的変化とは、異質ではないか。
いかなる物理的、化学的、物質的現象を積み重ねたとしても、それで意識の発生、内容を説明できるはずがない。


小林秀雄は、ときどきそうした趣旨のことを述べた。それはその通りである。
科学がそれを説明する、あるいはしようとする、というところが、むしろ誤解である。


デカルトに限らず、意識や思考があることは、誰にもわかっている。
物質界があることも、たいていの人は認知するであろう。
したがって、自然科学が問題にするのは、「精神」現象と、物理・化学・生物学的現象の、「対応関係」である。
片方から片方が、たとえ論理的「科学的」には導かれないにしても、両者の「対応」は、観察できる。物
質からなぜ意識が生じるかを問えば、それは一方の話だが、
脳という実体と精神現象がどう対応するかは、また別の話である。


…(この対応関係を)「科学的に」論証できるという保証は、
話が複雑になりすぎるために、ないに等しい。
精神が物質的基盤の上に乗っているからといって、精神を貶める必要はない。
しかし、その表現が気に入らぬなら、精神と物質が平行しているといえばよろしい。
それは誰でも、日常認めることである。私に興味があるのは、その平行関係の詳細にほかならない。
両者の因果関係ではない。
…脳は、知覚を介して、外界をその中に取り入れようとする、といってもいい。
…とすると、外界とのなんらかの明確な対応関係を、われわれは脳の中に持たなくてはならない。
…外界を取り込むという機能は、脳の本来の機能の一つである。
…外界の構造は、脳の構造とは、とりあえず縁もゆかりもない。
したがって、それを取り込むために、脳は、きわめて強力なアナロジー機能を発達せざるを得ない。
生物は、そのために、数億年以上の歳月をかけた。

専門の解剖学、博物学について。

…そこで、解剖学は「言葉」を使う。つまり、すべての対象が、いったん「眼」という知覚系を通過するからである。
「視覚的イメージ」として捉えられなければ、無益だからである。
なぜ、眼を通る対象を扱う学問が、画像ならともかく、言葉を用いるのか。
それは、言葉がまさしくそういうものだからである。
知覚系を通過して脳に入ってくるものを、処理する形式そのものだからである。
言葉の働きの、大きな部分がそこにある。


誤解が無いように付言すれば、言葉の機能はコミュニケーションだ、という俗説がある。
これを俗説と表現したのは、私ではない。福田恒存氏である。
こうした俗説は、それ以前に言葉には、現実の代替物として働き、現実の認識を助け、
あるいは現実そのものを規定する、という働きがあることを忘れている。

博物学は、つねに情熱の所産である。ただし、情熱はなかなか理屈にはならない。
博物学のような平坦な学問が、なぜ情熱の所産か。それは、情熱に駆られてみればわかる。
あるいは、駆られてみなければ、わからない。
膨大な事実を、飽きもせずに集めるについては、それ以外に答が無い。
博物学を生む情熱は、冷たい情熱である。それが解剖学を生んだ。


博物学の眼とは、たとえば、構造主義の眼である。眼は構造を見てとるからである。
情熱が直接対象に触れえるなら、博物学にはならない。そこに、眼が介在すると、冷えた情熱が生じる。
他人の死を見つめる眼が、最も冷たい眼であることに、異論は無かろう。
この冷熱は、だから、死と関係することが示唆される。分類学は、おびただしい動物の死体の上に成立した。

・神経…解体新書で創られた訳語。「神気の経脈」に由来。

理屈と膏薬はどこにでも付く。

ダーウィン「自然選択による進化」
 → エルンスト・ヘッケル「個体発生は系統発生をくりかえす」(反復説)
 → ド・ビア(英) 「個体発生の変化が系統発生を生じる」
「卵が先か、ニワトリが先か」の論法。

ゲーテの頃から、ドイツでは、科学論文はラテン語でなく、ドイツ語で書かれるようになる。
しかし、1970年代ともなると、ドイツの科学論文は英語でかかれるようになった。

脳の見方 (ちくま文庫)

脳の見方 (ちくま文庫)