『思想とは何だろうか 鶴見俊輔座談』、晶文社、1996年

はるか昔、鶴見俊輔に興味があった頃に買った本。
部屋の奥から発掘して早速読み上げる。
強烈な時代感覚のズレを感じる。
幾分なりとも引っかかってきたものを以下に引く。

鶴見俊輔はカルナップに1年習った。講義「分析哲学入門」「経験論の原理」

加藤周一『日本文学史序説』
 日本文学の変化の節目
1.平安前期 (9世紀)  
2.鎌倉 (13世紀)  
3.徳川幕藩体制が固定する時期(17世紀)  
4.幕末維新 (19世紀)

万葉集』は、日本仏教史上最も寺院の建った黄金時代の最大の詩歌集なのに、
その95%は仏教とは何の関係も無い。
キリスト教と比べてみると面白い。
西洋の12世紀のキリスト教と日本の8世紀の仏教は違う。
なぜかというと、それぞれの宗教が浸透した社会階級が違うから。

・『歴史の文体(Style in History)』, Peter Gay
結局歴史家というのは自分の体そのものがメディアの一つである。
だから、自分の体をその歴史を記述するのに
どこに適するかをうまくキャストすることによって成果が違ってくる。
ギボンのようにシニックな人間がローマ帝国の衰亡のところに自分をあてたから、
長年の年月に耐えるすばらしいものを生み出せたのであって、
もしギボンがローマ帝国興隆のほうに向かったら、全然いいものは生まれなかっただろう。

「敷島の大和心を人問はば」(本居宣長
「しき島のやまと心のなんのかの うろんな事をまたさくら花」(上田秋成

・William James 『心理学の諸原理』の中にある挿話。
「ある歯科医が機械の操作を誤って意識を失った。
彼は自分が昏睡状態に陥りながら宇宙の究極の真理を発見したと思い、紙切れに何かを書きなぐった。
そして助けられたあと自分が宇宙の究極の真理を発見したことを思い出し、紙切れを取り出してみた。
そこには、「部屋に笑気ガスが充満している」と書いてあったそうだ」
…われわれはいつも、状況の中で手に入れられる諸真理を扱うしかないのだ。

(「あとがき」の最後のエピソード)
「私と同じ学校の先輩の書いた文章で読んだことだが、
小学校1年生の最初の時間に、先生が「皆さん、マルを描いてください」と言って、
教室内の1年生40人あまりにマルを描いてもらった。
「できた人」と聞くと、ほとんどが手を上げたが、一人だけうつむいて描いている子がいたので、
先生はその子のところに行って、しばらくみていたが、やがてその子が描き終わったところで、
その子の描いた紙を教室の皆に見せて、
「○○君は、こういうマルを描きました」と言った。
その子の紙は黒く塗ってあり、マルが白く抜いてあった。


先生は、その子のそばにたって、しばらく何を考えていたのか。」

思想とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

思想とは何だろうか (鶴見俊輔座談)