『汽車旅放浪記』、関川夏央、新潮社、2006年

関川夏央の「鉄道−日本文学」エッセイ。
やはりいい文章だ。小ネタも勉強になった。
特に、「太宰治の帰郷」の、修治(太宰の本名)とたけの話がよかった。


その他、メモ帳代わりに引いておく。

中野重治は福井の人である。

「さようなら さようなら さようなら さようなら
 さようなら さようなら さようなら さようなら
 おれ達はそれを見た
 百人の女工が降り千人の女工が乗りつづけて行くのを
 さよなら さよなら さよなら さよなら
 さようなら さようなら さようなら さようなら
 そこは越中であった
 そこの小さな停車場のふきっさらしのたたきの上で
 娘と親と兄弟が互いに撫で合った
 降りたものと乗りつづけるものとの別れの言葉が
 別々の工場に買いなおされるだろう彼女たちの
 二度とあわないであろう紡績女工たちのその千の声の合唱が
 降りしきる雪空の中に舞い上がった」

 この詩を、よいと思ったのははるか後年のことである。
一九六五年当時の私には歴史を生きようとする気持ちがまったくなかった。
ただひたすら個人の「現在」に生きて、ひたすら熱い風を呼吸していた。

林芙美子は1951年6月、突然死した。一種の過労死である。
戦後になってから異常なまでに働いたのは、他の女性作家に書かせたくないからだという観測には、
どこか真実味があった。
年譜上は満47歳半だが、ほんとうは48歳1ヶ月余であった。


「個人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にひどいこともしたのでありますが」
「死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか個人を許してもらいたいと思います」


むしろ明るい、あまり悼む雰囲気のなかった葬儀を、川端康成のこんな挨拶がひきしめた。
そのあと、小額の香典を手にした下落合町内のおかみさん連が大挙して焼香に訪れ、会葬者を驚かせた。

宮脇俊三:『日本の歴史』、『世界の歴史』を担当した中央公論社編集者にして鉄道愛好家。
 著作に、『時刻表2万キロ』(最長片道切符)、『時刻表昭和史』。)


鉄道は、人間の壮大な愚行の終わりとは無縁に、また愚直に、日本の真夏の暑気を割り割いて走った。
そんな経験が、歴史は年表上の色分けとは関係なく連続するのだと実感させたのだろう。
個人史と昭和時代史を融合させたすぐれた歴史記述『時刻表昭和史』。…


宮脇俊三の鉄道への愛着の根源は、戦前という時代の明るく落ち着いた生活への懐旧の念と、
近代をつらぬく鉄道というシステムへの信頼感であった。
ゆえに、鉄道というシステムの数字的表現、
または計算的文学である「時刻表」を生涯愛し、読み込んだのである。

神岡には良質の鉛・亜鉛の鉱山と、
60年代から70年代にかけてのイタイイタイ病郊外で知られた精錬所があった。
現在はその廃鉱跡を利用した世界的規模のニュートリノ観測施設スーパー・カミオカンデがある。

果たしてその時刻に「燕」はトンネルから姿をあらわした。それは喜びだった。
日本人の時間感覚は学校と軍隊が植えつけ、鉄道がそれを分単位にまで律した。
そのようにして成立した近代というシステムの、数字的表現が鉄道時刻表であった。

漱石
・「あなたは余っ程度胸のない方ですね」(『三四郎』)
漱石柳家小のファンだった。その口跡は『坊ちゃん』の文体に名残をとどめている。
日本の近代文学は古典的輪芸の影響下に出発したのである。

内田百閒 へそ曲がりな老文士である。
芸術院会員に推されたのに断った。なぜ断るのかと問われて、「いやだから」と答えた。
なぜいやなのかと重ねて聞かれ、「いやだからいやだ」と言い放った。
「何事によらず、明日に延ばせることは明日に延ばしたほうがいい」


・『ノラや』の経緯は、黒澤明の『まあだだよ』に詳しく描かれている。

汽車旅放浪記

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