『ウェブ人間論』(2)、梅田望夫 平野啓一郎、新潮新書、二〇〇六年



ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

前回 の続き。
本書で展開している平野啓一郎の疑問にはわたしも共感するところが多かった。
今日は、梅田望夫電子書籍に関する展望について。

梅田
大きな流れとして、「なか見!検索」でも、出版社側に「なるほどこれは中身が検索できるように公開した方がビジネスとして得かもしれない」という論理が出来始めていることが重要です。ベストセラーは中身検索が出来ないほうがいいが、ロングテールの部分、ほんの少ししか売れない本については中身検索できたほうが、出版社、著者、読者三方にとっていいのではないかというコンセンサスがこれから確実に生まれていく。実際、恐らくその方向へ、次の十年でぐっとシフトするでしょう。さらに今、グーグル・ブックサーチもどんどん進化して、何十年という単位でなく、あと十年以内に世界中の図書館に眠っている書物がほぼすべてスキャンされてしまうようです。


平野
ただそうなると、本はみんな買わなくなるんじゃないですか? 僕もやっぱり、表現者としての生活にちょっと危機感を感じてます。圧倒的な数の人たちにとって便利だからという理由で、著作権をもっと緩和して、何でもネットで読めるようにすると言われると、困ってしまいますが。


梅田
著作権を固めれば固めるほど孤立していくという見方もありますよ。


平野
それは、具体的にはどういう意味ですか? 共有されないから? 対価を払って広まるんだったらもちろんいいんですけど、無料なんですよね。


梅田
そうなんですが、極論を言うと、本ってなぜ売れるんだろうということに行き着くと思うんです。例えば平野さんがブログをやっていて、今はこんな小説を書いているとみんなに知らせながら長い時間を過ごし、本が出版されたらその一部はネットでも読めたり中身検索も出来たりするとしましょう。そうすると「読む」という行為の一部は無料です。けれど、その「読む」という行為がもう少し便利になる、読みやすくなることにお金を払うとか、それを保存しておきたいからお金を払うとか、そこで初めて金銭的なものが発生する。こう考えられるのではないかということです。「読める、読めない」で、線引きをしているのが今の著作権の基本です。ところが、読みにくくてもいいならネットで読める部分もあるけど、まとめて電車の中では読めないとか、電気がない時は読めないとか、どこかに持っていきたいから本を買うとか、そういう利便性のほうにお金を払ってもらう、という考え方はどうですか?

これ、わたしも梅田の意見に賛成。
わたしは実際にそうしてます。
ネットで全文読めても、面白い本はそれとは別にお金出して買う。
というのも、自分が認めたものは「モノ」として持っていたい、という欲望があるから
(オタクの心理そのものだ)。
だから、これから本というメディアは、単にコンテンツだけではなくて、
それ以上の付加価値を持つメディアとして残り続けると思う。
これは、CDが「初回限定版」とか、
パッケージに異様に凝ることで購買欲を煽っているのと同じことだろう。
ただ……メディア自体はなくならないと思うけど、
全体的な売上は平野の述べる通り下がるかもしれない。
わたしは良質なものは必ず残ると信じているので、これは一種の「淘汰」と考えているが。


グーグル、アマゾンの電子書籍についての戦略については以下の通り。

梅田
(グーグル・ブックサーチは)著作権の切れた本は、既に無償でダウンロードできるようになりました。でも著作権が切れていない本については、検索結果に対して、限定的な「立ち読み」しかできない。それは間違いありません。ただ、一ページ単位の公開かどうかという細部は、グーグルと出版社の折り合いのつけ方の問題ですから、これから煮詰まっていく問題です。


アマゾンの「なか見!検索」サービスの戦略は、検索の結果のペIジは制約つきでお見せしますが、本をアマゾンから買った瞬間に中身はネットで永久に見られますよ、という方向です。この戦略は結構考えぬかれていて、このサービスによって本が売れるはずだから、出版社側もアマゾンには協力するという感じになり始めているわけです。ロングテールの本は全部そうなるべきだと思います。例えばひと月の売り上げ冊数がこのくらいに落ちたら、もうそれはグーグルやアマゾンに中身を上げた方がいいといった合理的な判断を、出版社が本の一点一点について細かくコントロールすべきです。過去の本は全部、載った方が売れますよ。


平野
なるほど。僕はそういうイメージではなかったんですよ。データのやり取りが丸ごと出来るようになると思ってたんです。例えば、図書館で本を借りるように、一冊単位でダウンロードが出来るようになるということはないんですか?


梅田
著作権が切れていない本についてはありません。心配すれば切りがないですが、グーグルやアマゾンには、それをやる理由がないですよね。他の第三者が無断でやる可能性はありますが、そこは著作権で引っかかるから取り締まれる。だけど、そんなことのデメリットより、今基本的にほとんどの人があんまり本を買つてないという現状を考えて欲しいんです。アメリカでは、アマゾンが出てきてから本全体の売り上げが伸びているんです。今まで本を読まなかった人が、こんなところにこんな本がある、と発見して結果的に出版業界のトータルの売り上げが上がっている。ミクロに見ても、ロングテールのところで埋もれているいい本なのに、全然売れなくて知られてない本があるとして、それがどういうふうに知られるかというと、今ほぼすべての人々が何かについて知りたいって思った時に、検索エンジンに行きますよね。その時に、その本のことが出てくるか出てこないかで、存在するかしないかというくらいの差があるわけです。人々の行動形態が変わってしまったのだから、本も検索に引っかかる方がいいんです。ただし、新刊で全部同時にやるべきだとは僕も思ってなくて、ロングテール側に行っちゃった作品に大きな効果があると思うんです。

このロジックにも深く同意。
とくに付け加えることはないが、
こういう議論でわたしがいつも不思議に思うのが、著作者の態度。
どんな分野であれ、表現者ならば「自分の作品をみてもらいたい」というのが
第一の欲望なのではないだろうか。
その後に「その作品でお金を稼ぐ」という欲望があるのだと思うが、
この順番が逆転しているような議論をよく耳にする。
もちろん、作品を作る上では、
広く受け入れられるためのマーケティングなどの視点も絶対必要だけど、
それを一番に主張されると受け手としてはちょっと引きます。


さて、ビジネスとして、わたしが真っ先に思いつくのは「専門書の電子書籍化」。
専門書があんなに高いのは、
売上「数」が見込めないために売上「単価」を上げざるを得ないからだろう
みすず書房の単行本や、法政大学出版局の「叢書ウニベルシタス」は、
 全国の図書館の数だけ売れると利益が出る価格に設定されている、と聞いたことがある。
 これ、ホントかな?)
専門書に関しては、華美な装丁はいらないし、必要とされるのは情報だけなので、
それこそ電子書籍という形態が最も適しているのではないか。
また、専門書はいつもまるまる1冊必要なわけではないので、
場合によっては「1章から3章まで」なんてバラ売りが出来ても面白い。
出版社にとっても悪い話じゃないだろう。


いったん形式がととのえば、コストは格段に少なくなるはず。
そうなると、被害をうけるのは書店や流通業者かな。
なにしろ、中抜きで直接出版社から読者に届いてしまうわけだから。
でも、専門書は回転率が低いはずだから、
その分もっと回転数の高い商品が取引の対象となることになるので、
やはり、書店や流通業者にとっても悪い話ではないだろう。


あ、でもデータだと簡単にネットに流通してしまう危険性はあるかな。
手軽に手に入りすぎて、いわゆる「積読」がさらに進行してしまうかもしれない。


うーん、思いつきでダラダラと考えてみたけど、
「専門書の電子書籍化」は十分前向きに検討するアイデアだと思う。
まさにロングテールビジネス。
もう始めてる出版社ないのかな。


まとめ。
本書は、対談という形式をうまく生かした思考のやり取りの記録。
厳密な議論や解決策は必ずしも提示されてないが、
そのぶん思考を促すアイデアに満ちてます。
この記事(メモ)はまた読み返そう。

ウェブ人間論 (新潮新書)

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