『P.S.元気です、俊平』、柴門ふみ

「恋愛の教祖」の最高傑作。
ぼくには、今後これを超えるものを柴門ふみが描けるとは思えない。

「なんかさ、中途半端だったじゃない?
 どうせダメになる二人なら、とことんダメになるまで見届けてやろうと思って。
 もうちょっと一緒にいさせてよ。
 …あんたって相変わらずヘリコプター追っかけたり街角ではしゃいだり…
 バッカみたい」


「許す!
 何いっても許す。
 女の言うことなんか何言ったって許す」


風景がヨコ糸ならば時間はタテ糸
交錯して織りあげた思い出は鮮やかなタペストリ


季節は再び
ゆっくり
動き始める


景色(人々)と時をつづれ織りにしながら

最終話の4ページの、この桃子さんと俊平*1のダイアローグは、いつ読んでも胸が熱くなる。


ポール・サイモンにちなんだペンネームをもつこの漫画家の処女連載作品は、
キャロル・キングのアルバムにちなんだモノローグで幕を下ろす。


小学校の頃、親がこの新刊がでるたびに狂喜していたのを思い出した。
それに影響されてぼくも読み始めたわけだが、
「とにかく桃子さんって面倒な人だなー」と思い、
将来絶対に年上の女と付き合うのはやめようと固く心に誓ったのが第1印象。
だが、しばらくして大学生になってから読み直してみると印象がまるで変わっていて、
一番共感できるのは桃子さんになっていた。
考えを見透かされそうになったり、誰かとの距離が縮まりそうになると
屁理屈をこねて周りを煙に巻くところなんて特にそう。
桃子さんに限らず、登場人物が充実してるが、
これは作者の身近な人間への愛(そして悪意も少々)ある人間観察によるものだろう。


ぼくが本作品を柴門ふみの最高傑作とする理由。
それは、この漫画が細部まで非常に丁寧に描かれている点だ。
たとえば、冒頭に掲げた最後の4ページの桃子さんと俊平のダイアローグで言うと、
桃子さんは喋っている間中、一度も俊平と目を合わせようとせず、コマの構図も不安定。
で、ウダウダと言葉を連ねた後、「許す!」の俊平の言葉で初めて目を合わせて破顔するが、
目を合わせた途端コマの構図は安定し、
ラストは二人のほかに友人たちも収めた鳥瞰のカット。
このダイアローグは桃子さんと俊平の関係の結論であり、俊平の確かな成長の証であり、
もちろん、物語の終焉を告げるものでもある。
「女の言うことなんか何言ったって許す!」とは、
作者柴門ふみ(=女)の最大のコケティッシュだろう。
最後に桃子さんが映画館の舞台から降りるのもダブルミーニング
つまり、「一段高いところから俊平を見下す態度を止めること」と、
「この漫画の狂言回しを降りること」を表している。
主人公こそ俊平だが、物語を推し進めていたのは明らかに桃子さんだから、
桃子さんが狂言回しをやめるのならこの漫画も終わらなければならない。
この4ページ、すごいです。


ところどころ衒学的なのもぼくを啓蒙した。
ボーヴォワールサリンジャー寺山修司の引用だとか、
そういうのは成長するにつれて後から少しずつわかっていった。


それだけに、この漫画の安易なテレビドラマ化には腹が立った。
どうせ柴門ふみの漫画だからヒットするだろう、
くらいの気持ちでドラマ化したのだろうが、キャストもひどかった…。
何より、原作者がドラマ化にOKを出したことに腹が立つ。


…実を言うと、本棚のスペースを確保するために売ろうと思って読み返したのだが、
この漫画、とても手放せません。
……もう1回、読み直すことにします。


(付記)
で、1巻から読み返して気付いたこと。
俊平が教師への反抗心から、
高3のときに「保健体育」「倫社」「政経」の定期試験で
上位の成績をとって名前が貼り出されたとき、
政経の1位にある名前が「土屋賢二」。
柴門ふみお茶の水の哲学科で、まさに土屋賢二の生徒だったからね。
「倫社」じゃなくて、「政経」なのが面白い。

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*1:桃子さんは呼び捨てできません。