『人間ども集まれ!』、手塚治虫、1967〜68年、実業之日本社

大人向けナンセンスに手塚治虫が挑んだ痛快SF巨編
単行本未収録だった幻の結末一挙170ページ復刻!!

と帯にあり、勢いで購入してしまった。
「性」をテーマにした作品。
簡単に内容を要約すると、
突然変異により、
生まれつき無性人間を作る精子を生産する男である天下太平は、
その無性人間の命令への従順性、軍事有用性に注目する
科学者や政治家、商売人に利用されて、
南の海に独立国家「太平天国」の国王にさせられる。
一方、大量生産された無性人間は、
男でも女でもない「第三の性」として高い商品価値を認められ、
世界中に広まることになるのだが、
人間扱いされないことに不満を抱き、人間たちに対して反乱を起こす。
タイトルの言葉は無性人間たちの台詞なわけだ。


本作品が評判になったのは、雑誌連載時と単行本完成時とで
ラストが正反対の結末になっているからだ。
「性」は「生」であり、生きるものの活力の源である、
というメッセージは変わらないものの、
連載では無性人間が「起性手術」をして「性」の喜びを受け入れる
という幸福な雰囲気の結末、
単行本では無性人間がすべての人間を去勢する悲観的な結末となっている。
また、絵のタッチも、いつもの手塚治虫らしい、丸く柔らかいものでなく、
大人漫画ヒゲとボイン』や「コボちゃん」のような線で
描かれているのも話題になったようだ。
なんでも、これはそれまで子供向けのマンガしか描いていなかった
手塚治虫大人漫画への挑戦でもあったらしい。


そういった漫画史・手塚治虫史的なことを抜きにして
作品それ自体で考えてみるならば、
この漫画、ぼくはいまひとつ深さが足りないように思う。
男でも女でもない「無性人間」が迫害され、立ち上がるという構図は、
鉄腕アトム』で繰り返し描かれてきたことであるし、
結論もこれでははじめから予想できるものだ。
では、ストーリーテリングはどうかといえば、
これも手塚治虫らしい性急な筋の運びで、あまり感心できなかった。


だが、以上のことは手塚治虫の力が及ばないせいではなく、
ぼくがこの手塚治虫が提示した話の変奏を見すぎたせいだからだろう。
変奏は先駆者がいるゆえに、より洗練され、巧妙に奏でられるし、
そうでなければいけない。
先駆者が後進に比べて劣っているように見えるのは、
仕方のない面もあるのだ。


勉強になったのは、手塚治虫のリライト癖について、
巻末に解説があったことだ。
それによると、手塚治虫は雑誌連載時のものを「原作」と呼び、
単行本化するときにもう一度自分で「編集」をしていたらしい。
この編集作業は、
『人間ども集まれ!』のように結末が変わるものもあったし、
単純にコマの描きなおしや数ページの描きなおしまで、
実に多様なものだったらしい。
いずれ、この手塚治虫の「編集作業」について、
誰か研究をまとめてほしいものだ。


漫画を学問として成立させようと思うのなら、
こういう文献学的な作業もおろそかにはしてほしくない。
少なくとも、後からレファレンスができるような状況にしてほしい。
それは、研究者が出版界に働きかけなければならないことでもある。
学問として研究対象にする以上、確固とした文献の確保が必要だ。
単なるヲタクの趣味でなく、また安易な社会批評の道具とするのでなく、
漫画を研究対象とするためには、データベースの確立といった、
地道な作業が必要とされるのではないだろうか。


ちなみに、『ルパン・ザ・サード・Y 次元大介編』、
『悪霊』、『人間ども集まれ!』の三冊は、
すべて同じ日に
ヴィレッジ・ヴァンガードのアオリ文句につられて買ったもの。
この三冊はすべて売ることにする。
衝動買いは信用できないということか…。
すべて安くない漫画だったのに…。
自分の審美眼を疑うのはこんなときだ。


人間ども集まれ!

人間ども集まれ!