『神の子どもたちはみな踊る』、村上春樹

[book] 『神の子どもたちはみな踊る』、村上春樹、新潮社

短編小説と長編小説は似て非なるものだ。
ともに「小説」でまとめられてはいるが、語り方はまったく異なる。
長編小説が叙述を重ねて、少しずつ世界を構築していくのに比べ、
短編小説はある限られた出来事・時間を描写することで世界を切り取る。
神の子どもたちはみな踊る』もこの例外でなく、
阪神大震災のあとの「ある6人」の「ある出来事」が語られる。


この本も『海辺のカフカ』を読み終わって
ハルキづいたときに購入したもので、一気に読んだ。
しかし読後感は正反対。
作者の伝えたいことがよくわからない。
いや、「取り返しのない喪失への気づきとそこからの回復」、
「圧倒的に強力で、自分のコントロール以上の出来事との関係」にありそうだ、
というのはなんとなくわかるし、
地震がその暗喩だったりきっかけとして使われている、というのもわかる。
だが、肝心の個々の話が描いていることがよくわからない。
正確には実感できない、というべきか。
その意味で、モヤモヤとしたものがぼくの中に残っている。


だが、いやな気分ではない。
物語を体験する、ということは多分こういうことだ。
それに、ぼくの経験上、短編小説は読み終わってしばらくしてから
突然その意味が分かることが多い。
それは、休日に街を歩いている時や、
一日の仕事の後に疲労感とともに岐路についている時に
いきなりやってくる。
これらの小説も、いつか天啓のようにその意味を実感できる時がくるだろう。
もっとも、日々の雑務に忙殺され、
ゆっくりとこの小説について考えていないだけかもしれないのだが…。


ただ、それぞれの話でいえば、「UFOが釧路に降りる」の

一瞬のことだけれど、
小村は自分が圧倒的な暴力の瀬戸際に立っていることに思い当たった。

のくだりはぞくっとするほどうまくできてるし、
「アイロンのある風景」や「蜂蜜パイ」は好きな話だ。
思うに、
「ある限られた時間・出来事を描写することで世界を切り取ろう」とする
短編小説の物語自体が象徴的になるのは必然なことなのだ。
そして、短編小説の面白さはここにある。


あと、「神の子どもたちはみな踊る」の
「手足が長くて踊りかたがひょろひょろしている」ため
「かえるくん」と呼ばれる主人公の善也と、
「かえるくん、東京を救う」の「かえるくん」は関係があるのだろうか。
帯には「まったく関係のない六人の身の上」とあるから、無関係なのかな。
村上春樹は本の装丁にもかなり気を遣うらしいし。
しかし、そうだとしたら「かえるくん」なんていう
インパクトのある言葉、同じ本の中で使うだろうか。
うーん…。

そうそう、『少年カフカ』に書いてあったが、
村上春樹は原稿を奥さんに見せて感想や批判をもらうらしいけど、
この『神の子どもたちはみな踊る』に関しては、
「書こうと思えばちゃんと書けるんじゃない」というコメントをもらったらしい。
もう一度、うーん…。

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る