(続き)
心の奥底にうまく言語化できない「モヤモヤとしたもの」があるとき、
それをどう「昇華」するか、というのは人間にとって重要な問題だ。
ここでいう「モヤモヤとしたもの」とは、これ以上表現できないもので、
しかし意識の奥底に確かにそこにあることは実感できる――そんなものだ。
単純に、誰かへの愛情や憎しみのときもあるし、
社会への怒り、他人に認められたいという欲望もあるだろう。
内向的には、漠然とした不安や
自分自身に対する嫌悪感といったものもそうだ。
この「モヤモヤとしたもの」がうまく処理できないほど肥大したり、
処理の仕方に失敗すると精神的に病んでしまうことになると思うが、
多かれ少なかれ、人は普通の生活でこれを少しずつ処理している。
仕事帰りや週末に運動をする、というのはこれのわかりやすい解消法だし、
楽器が演奏できるなら音楽というのもその方法のひとつとなるだろう。
趣味の重要性の一部はここにある。
つまり、精神のガス抜きとしての役割がある、ということだ。
精神分析学の言葉を借りるなら、
この「モヤモヤとしたもの」には
「性欲」や「無意識」といった言葉が対応することになると思う。
なにがいいたいのかというと、
ぼくは『海辺のカフカ』を読んで、
「物語を書く」というのもこの行為のひとつに数えられる、
ということを理解したような気がするのだ。
それまでのぼくは、
小説というのは簡単にいえば
「話の筋やメタファーを利用して作者の伝えたいことを上手く表現する文芸」
のように考えていたが、どうもそれは一面的な捉え方だったみたいだ。
というのも、この小説は象徴を分析して読んでいくこともできるが、
そのように象徴を解消していくことでは理解しきれない何かが、
ここにはあるような気がするのだ。
もちろん、分析しようとすればできるだろう。
「カフカ」はチェコ語で「カラス」の意味だとか、
ユングの集合的無意識の概念がベースになっているとか、
セックスと暴力と本能の関係とか…。
だが、ぼくはあまり興味がない。
それは、村上春樹自身が『少年カフカ』*1で
隅から隅まで構成し尽くした小説ではないこと、
書きながら、いわば自分の「無意識」と対話しながら(井戸掘りをしながら)
物語を考えていた、と述べていることの影響を受けたのかもしれない。
そして、作者自身の言葉に影響されたにせよ、
ぼくにとって小説への新しい近づき方を手に入れたのは確かだ。
それにしても、よくわからないものをよくわからないまま取り込んでおく、
というのは、非常に気持ちの悪い感覚だ。
しかし、この気持ちの悪い感覚、
このうまく整理のつかない「モヤモヤとしたもの」を取り込むということが
「小説を読む」という体験なのだろう。
思えばずっと昔、小説を分析しながら読む方法をおぼえる前には、
ぼくにとっての読書体験とはそういうものだったはずだ。
そんなことをぼんやりと思い出した。
(ただ、分析しないと小説に対して述べることは
非常にシンプルなものになってしまう気が…。
「面白かった」「たくさんモヤモヤした」
「モヤモヤ度は少なかった」とか。)
とはいえ、以後すべての物語を「無意識それ自身の発現」と
捉えるのは問題があるだろう。
しかし、この小説を読んで、物語の解釈の方法のひとつとして
無意識それ自身への通路を開くことができたことを素直に喜びたい。
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