『意味がなければスイングはない』、村上春樹、文芸春秋、2005年

音楽に関する読み物は大体次の3つに分類される。

1.入門書。
2.ディスク・レヴューの羅列に終始するもの。
3.個人的な体験・思い入れを感傷的に綴ったエッセイ。

専門的な研究書や、読むことによって、
その音楽がこれまでと違うように聴こえてくる批評にはなかなか出会えない。


本書は村上春樹による音楽に関するエッセイで、3の分類にあてはまる。
中身は、かなりマニアックというか、玄人好みな内容で、
村上春樹が音楽と真面目に付き合ってきたことがわかる内容だ。


一連のビーチ・ボーイズのアルバムに関して、
サーフズ・アップ』と『サンフラワー』の対比なんて、
ぼくも中山康樹を読むまで知らなかったことです。


他にも、アドルノの音楽評論集『楽興の時』が、
シューベルトのピアノ小品の題名から取られていることとか、
トリビアも色々と勉強になったけど、
なんといっても白眉なのは、スプリングスティーンの項にある
レイモンド・カーヴァースプリングスティーンを並べて論じるくだりだ。

もちろんアメリカに
それまでワーキング・クラスを描いた文学や音楽が
存在しなかったわけではない。
しかしエリック・オルターマンが指摘するように、
ワーキング・クラスや貧困階級に属する人々を主人公とする作品は、
純粋な芸術である前に、まず「政治的なもの」として
分類されてしまう傾向がアメリカ文壇にはあった。
それはひとつにはアメリカの文化や芸術が基本的に、
東海岸を中心とする知的エリート階層によって
リードされているということが原因となっている。
そしてまたひとつには現実問題として、
ニューディール政策の影響を色濃く受けた
スタインベックの世代を最後にして、
ワーキング・クラスの生活を真摯に描こうとする芸術家が、
ほとんど現れなかったという事実がある。
そのような動きは、
50年代前半にアメリカを席巻したマッカーシーイズムによって、
徹底的に壊滅させられてしまった。
それ以来、アメリカのメインストリームに対して
ノーを叫んだ芸術運動としては、50年代のビートニク世代や、
60年代のヒッピー世代などがあげられるわけだが、
どちらのムーヴメントもワーキング・クラスとは
ほぼ無縁の世界で展開された運動だった。
そしてそれらの文学的傾向(シニシズムと楽観的理想主義)の
行き着いたところがポスト・モダニズムだった。
それはいくつかの優れた文学作品を生み出しはしたが、
結局は多くの領域で、都市インテリ層のための
単なる「知的意匠」と化してしまうことになった。


ロックについていえば、
70年代半ばのロック・ミュージックは、ディスコとパンクという、
それぞれの定方向進化のどんづまり近くをうろうろとしていた。
60年代ロックのワイルドな創造性は遥か遠いものになっていた。
ディランは迷い、マッカートニーは安住し、
ブライアンを欠いたビーチ・ボーイズはリスナーを失い、
ストーンズは世間的認知を受けたワイルドさという
微妙な囲いの中に閉じ込められつつあった。


そのような文化の閉塞状況に最初の風穴を開けたのが、
カーヴァーであり、スプリングスティーンであったわけだ。
その影響力は次第に大きくなり、人目を引き、
やがてはあたりを圧するまでになった。
カーヴァーはその作品群によって
アメリカン・ニュー・リアリズム」とでも称するべき
新しい潮流を文学の世界に作り出し、
スプリングスティーンアメリカン・ロックのルネッサンス
ほとんど独力で実現させることになった。
そのような新しい胎動が、
奇しくもワーキング・クラス出身の二人のアーティストによって
成し遂げられたということに、
我々はおそらく注目しなくてはならないだろう。

うーん、勉強になるな。
村上春樹がなぜあれほどまでレイモンド・カーヴァーにこだわるのか、
その理由の一端がここに述べられている。
スプリングスティーンは最近いささか低迷しているように思うけど、
それもこの文脈で考えてみると新しい見方が出来るかもしれない。
村上春樹」という名前がなくても、十分楽しめる音楽エッセイだろう。

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない