『佐藤君と柴田君』、佐藤良明・柴田元幸、白水社、1995年

東大教養学部の2大人気教授による、寄せ集め短文エッセイ集。
これも破格の100円で売っていたので購入。
柴田元幸の文章は安心して読めるし、佐藤良明も一応興味はあるので手にとった。
軽い内容で読み物として面白かった。

いつも通り面白かったところをいくつか引いておく。

まず、佐藤良明は、
学習には「処罰回避のコンテクスト」である「間違った行動の矯正」と、
「報酬のコンテクスト」である「正しい行動へのプラスの強化」の
2つの種類があることを挙げ、語学学習についてこう述べる。

幼児が日本語を学ぶ過程で、そのたどたどしい日本語は、
周囲の人間の「ほほえみ」を誘う。
その子の試行が錯誤であっても、
その試行には「プラスの強化」が与えられるわけだ。
ところが教室で英語を学ぼうというとき、
錯誤には常に減点という罰が伴い、
減点には往々にして「人生の落ちこぼれ」とかいう脅迫がつきまとう。
下手な鉄砲を数撃っているうちに当ってくるというのが、
すべての技能習得の基本原理だというのに、
いわばヨチヨチ歩きの子供を、
倒れたからといって叩くようなことが続けられているのだ。
 「英語をものにするには英語を話すところに行かないとだめだ」
という意見をよく聞くけれど、
それが主張している実のポイントは、
「語学学習は、ブロークンな表現が通じたこと自体が
プラスの強化となるような状況でやらないとだめだ」
ということなのではないだろうか。
 語学学習が「処罰回避のコンテクスト」のなかで行われていることには、
特別なマイナス点がある。
「いくつ間違ったから何点減点」と、
脅しが永遠につきまとっている状況で、遺漏なく事を処すために、
生徒たちはいつも意識をピリピリさせていなくてはならない。
ところが、これは技能の上達すべてにおいて言えることだけれども、
大事なのは「無意識を鍛える」ことなのだ。
初めは理屈を通して学んだ
外国語の文法やイントネーションや言葉の配列が無意識に沈み、
意識には「自然だ」とか「おかしい」という感覚的なものとしてしか
認識されなくなってはじめて、
流暢な言葉づかいが可能になる。
意識が無意識に屈していく、
そのプロセスを助長することがどうしても必要である。

これ、もっともな意見だと思う。
暗号文を読むように解読し、減点法で採点する受験英語
ぼくは全面的に否定するわけではないけれど、
確かに外国語の習得、という観点から考えた場合、
現行の受験システムはあまり効果的とはいえないかもしれない。


次は柴田元幸のうんちくもの。

ドアーズという名は、
英国の文人オルダス・ハックスリーの著作(の題名)
『知覚の扉』から借りた。
ハックスリーはハックスリーで、
このフレーズを18世紀の幻視詩人ウィリアム・ブレイクから借りた。
「知覚の扉が浄められるなら/あらゆるものが無限に見えるだろう」

カントリー&ウエスタンの大御所ジョニー・キャッシュ
「スーという名の少年」という歌がある。
ある父親が、生まれた男の子にスーという名をつけ、
それっきり姿を消してしまう。
スーといえば典型的な女の子の名、
少年はさんざんからかわれ、いじめられ、喧嘩に明け暮れる毎日を過ごす。
こんなひどい名前をつけた親父をいつか見つけてぶっ殺してやる、
少年はそう念じつつ大きくなる。
 やがてスー少年は家を出て、旅を続けた末に、
とうとう父親を見つける。
そして、
「ハロー、俺の名前はスーってんだ、お前なんかくたばっちまえ」
とその腹にナイフを突き刺す。
すると、いまや虫の息の父が言う。
息子よ、俺みたいにろくでなしの親父じゃ、お前に何もしてやれん。
そこで俺は考えたんだ、スーって名前をつけてやりゃ、
とにかく弱虫には育たないだろうってな……。

あと、柴田元幸の翻訳についての文章はいつもながら勉強になるな。

翻訳の快感は、自分の痕跡がどんどん消えていくのを目撃することにある。

頭のいい人は翻訳に向かない。
その理由、
?頭のいい人は奴隷ではなく主人の精神構造を持っているから、
原文をひたすら崇めるようには頭が働かない。
 訳しながらあれこれ批判してしまう。
?頭のいい人は悪い翻訳を読んでも理解しても、
 悪訳で泣かされた怨念を持たない。
最後に、
?頭のいい人は、自分一人で読んでしまえば
 それで読んだと納得できてしまう
 (誰かとその読書体験を共有する必要性がない)。

翻訳する上で気をつけることは、
自分が読んだときに得たと思えるほとんど生理的な感覚を、
できるだけ忠実に再現するよう努めるということに尽きる。
そのためにはまず、原文ではスイスイ読める箇所が、
訳文で妙にひっかかりのある文章にならないよう留意する。
これは、語順、漢字とひらがなの混ぜ方、漢語の量、
句読点の打ち方などである程度解決できる問題であり、
自分でも大分慣れてきた気がする。
だが逆に、ひっかかり、抵抗感こそ味である「悪文」的な原文の、
そのひっかかりを再現する技はまだまだである。
下手にやると、単に下手な訳文にしか見えなくて、
結局は弱気になり、「通りのいい」訳文にしてしまうことが多い。
 だから、「悪文」の強さを聞き取る耳を養うこと、
それを訳文で再現する技を身につけること、
これが僕にとって当面の課題である。

最後に、佐藤良明が自著の『ラバーソウルの弾み方』について
軽く触れている箇所もあって、これも引いておこう。

長い時間かかってやっと仕上がった僕の最初の本は、
六〇年代とは何だったのかという長年の疑問からスタートしたものだった。
しかし「カウンターカルチャーの深層」について
自省的に考え進んでいくうちに、
とてもアイロニカルな結論が浮上してきたのである。
――ロックののりやヒッピーたちの反文明への思い入れこそ、
新しい資本主義を支える心性を切り拓いた。

そうか、そういうことをいいたい本だったのか。
この本、何が言いたいのかよくわからなかったので
寝かせてある状態だったんだよね。
機会があればもう一度そういう観点から読み直してみよう。
主張に賛成できるかどうかはわからないけどね。

佐藤君と柴田君

佐藤君と柴田君

佐藤君と柴田君 (新潮文庫)

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