『25時』、アメリカ、2002年、スパイク・リー監督、エドワード・ノートン

大胆な仮説を立てよう。
これは、アメリカについての映画である。


筋は、表向き――密告によって7年の実刑判決を受け、その服役のために
刑務所に入所する前の麻薬の売人モンティ(エドワード・ノートン)の
1日(今から「25時間後」であり、これがタイトルの意味するところだ)を
撮った映画――と説明できる。


だが、これはあくまで表向きの筋であり、
実は、エドワード・ノートンは「9.11」後に傷ついて
将来に希望が持てないアメリカそのものを象徴している。

さらに考えれば、「入所前の一日」とは、
今のアメリカの現状のメタファーなのではないだろうか。
即ち、「麻薬密売という悪行」は「諸外国に国際テロ同様の軍事介入」であり、
「7年間の服役」は「これまでのアメリカの外交のツケ」なのではないだろうか。


そう考えると全てに辻褄が合ってしまうのである。


モンティは仲間の密告により当局に逮捕されることになったが、
これはビンラディンを代表とするテログループがもともとCIAの支援により
成立していたことの暗喩であろうし、そう考えないと、
夜、昔の友人と集まったときに「グラウンド・ゼロ」の映像が
長々と映し出されることの意味と、
そして何よりフィルム全体を覆う深い絶望感は、
単に刑に服す人間を送る悲しみというだけでは説明がつかない
テレンス・ブランチャードの大仰な音楽のせいでもあるが)。


スパイク・リー自身、DVDのメイキングで
「9.11後のニューヨークをフィルムに収めたかった」と述べていたし、
以上の象徴的な内容は、意図的に採用された戦略であると思われる
(もちろん、意図的なものでなくても、
 そのフィルムが「そのように解釈できる」ことが重要なのであるが)。

話の結末も以上の仮説を裏付けるもの。
モンティの父親が息子を刑務所まで送っていくのだが、
なんと父親は息子に服役を拒否し、このまま逃亡し、
一生どこか遠い町で暮らす選択肢もあることをほのめかす。
そしてそのままフィルムは終わる。

結局このフィルムはモンティが服役するかどうかは語られない。
この父親の提案は、これまでの「アメリカの外交」という「罪」と
どう向き合うかを観客(=アメリカ国民)に問うているとも解釈できるだろう。
「7年間服役する」、即ち「これまでの外交を悔いる」のか、
または「このまま逃亡する」、即ち「何事もなかったように密告を忘れ、
罪人であることを忘れようとする」のか。

マスコミの報道による右傾化が進む中、
スパイク・リーが選択した「反戦」の戦術とは、
以上のようなものだったのではないだろうか
(繰り返すが、スパイク・リーにそのような意図がなくても問題は変わらない。
 そのように解釈できることが重要なのである)。


スパイク・リーは本作が長編17作目らしい。
中学生の頃に『ドゥ・ザ・ライト・シング』をみて以来、
常にその動向が気になっていた監督だ。

しかし、ブラック・ムービーという文法を使いながら、
アフロ・アメリカンの立場からアメリカ国内の人種差別の問題を
繊細な手付きで扱っていた初期に比べ、
おそらく『マルコムX』の頃から急進的な思想を性急な姿勢で主張するにつれ、
彼に対する僕の関心は薄れていった。
それが、『サマー・オブ・サム』で復活の兆しを見せており、
評判というか人気も悪くなかったので期待していたのだった。

もしこの映画における監督の意図が上に挙げたものであるなら、
スパイク・リーは長いスランプから抜け出すことが出来た、
とみなすことができるだろう。
それも新しいスタイルを身に付けて、である。


ただ、以下、いくつか難点を挙げる。

・カメラがうるさい。
 クレーンを使ったカメラワークはいつも通り効果的で面白いのだが、
 あえて編集して小刻みなアップをしたり、
 ショットを意図的に中断させてつなぎ合わせる編集
 (一種のジャンプ・ショットなのか?)は効果的では無いように思う。


テレンス・ブランチャードは好きなトランペッターだが、
 映画音楽ということを意識してか、少々大仰過ぎやしないだろうか。


最後に、期待通り、エドワード・ノートンの演技は素晴らしい。
繊細ながらも内には狂気(本作では破滅願望か?)を秘めた男、という
お得意の主人公をよく演じている。
恐らく、この映画が興行的にヒットしたのも彼の演技によるところが大きいのだろう。

スパイク・リーの次回作に期待したい。