とりあえず、村上春樹さんが言うところの「小確幸」は「しあわせ」にまちがいありません。
幸せ
小津安二郎監督の映画には晴れた日の庭に洗濯ものが風にはためいているシーンがしばしば出てきます。庶民の温かでささやかな幸せな家族がここにあり、というメッセージなのでしょう。
一竿に家族が白く笑ってる (光島繁 京都新聞)
しあわせってこんなものかなシーツ干す (斎藤和子 京都新聞)
ちょっぴりの幸せサンマと白ご飯 (辻田世志子 京都新聞)
お隣さんは庶民の平安を歌っています。
畑の恵みを残すことなく食べられる満足感と、素朴な秋の味にささやかな幸せを感じる。(村山起久子 京都新聞)
私が寝床に入るころ、三つの湯たんぽはほかほかと暖かい状態で待っていいてくれます。私が小さな幸せを感じるひと時です。(竹内昌子 京都新聞)
仕事の中にもあります。
今、認知症対応型のデイサービスで働いています。父や母の年代の方ばかりです。この仕事に就いて、小さな幸せを感じています。父や母と一緒にいるような雰囲気を味わえるからです。人に優しくなれるから、好きです。天職だと思っています。
(横江ゆかり 京都新聞)
人それぞれの幸せがあるのですから、自分に合った背伸びをしない幸せがいちばんということになるのでしょう。だから望むのは「小さな、」「ささやかな」「ちょっぴりの」幸せ。そして、欲張らず、に。
幸せの基準を下げて気が楽に (中村庄作 京都新聞)
毎日そんな幸福が続けばよいのです。つぎは詩人 高田敏子の「朝」から。
男は毎朝
カミソリでひげをそる
そのとき女は
包丁で野菜を刻んでいる
お互いに刃物を使いながら
刃物を感じないでいる
幸福な朝!
すばらしいなあ。
ホント、これらの言葉がすべてですよ。
韓国でも大流行です。
もっとも、韓国では「個人主義の幸福」のように受け止められているみたいで、少し日本の意味と違う気もしますが、まあ、それはそれとして。
「小確幸」は『村上朝日堂』シリーズで繰り返し述べられた概念です。
あ、『うずまき猫』でも語られてたような。
『うずまき猫』は名作です。
特に、この最後に収録されている飼い猫のピーターの話は寓意に満ちていて、寝れない夜などによく思い出します。未だに消化しきれていない話なんです。
村上春樹さんが営んでいたジャズ喫茶の名前、「ピーター・キャット」はここからきているとか。
学生の頃、幸福をさがして種々の書物を読み漁った時期がありました。
その結果得た結論は、「幸福とは精神の状態である」ということ。
陳腐な結論ですが、真実とは得てしてそういうもの。
詳しく説明しようとすると、「幸福」「精神」「状態」についての定義づけ、説明が必要になるわけで、哲学研究者の出番になるわけですが、とりあえず、「幸福とは精神の状態」である。そう言えると思います。だから、他人から見たら悲惨な状況、憐れむべき状況でも、本人が満足しているなら問題ないんです。
そういえば、若気の至りで、「人生の勝者」「人生の勝ち組」ということも考えたことがあります。
いわゆる「勝ち組」という言葉から連想するのは、富裕層、それも不労所得で余裕で生活できるような人々ですが、わたしにはそういう人々が「人生の勝ち組」とは思えませんでした。
そのときに漠然と考えたことは、人生の勝ち組とは、結局、人生経験が豊富な人のことを言うのではないか、ということです。
この人生経験とは、成功、上手くいった経験だけでなく、失敗、マイナスの経験も全部ひっくるめたものです。人生経験の残高は、プラスとマイナスで相殺して考えるのでなく、絶対値で考える。そう考えるようになってからは、大げさでなく、日常が変わりました。
そういえば、世間一般の評価を考えても、人から尊敬されている人は、みな、成功と失敗の両方を味わっているような。芸術作品の強度から考えると、例えばバッハ、ピカソ、デューク・エリントンという、生前から高く評価されていた人々。わたしはもっともっと評価されてもいいと考えていますが、単に歴史上のいち重要人物として扱われてしまっているような。特に日本では、これらの芸術家のファンであることを公言する人は多くないように感じます。
しかし、ベートーベンやモーツァルト、ゴッホ、ギル・エヴァンス、チェット・ベイカーのファンは多い。これこそ、悲劇の人生は人気があることの表れではないでしょうか。マイルスがこれほど人気があるのも、麻薬中毒時代、隠遁生活時代などの「マイナス経験」のおかげではないか、そんなことも邪推してしまいます。
とりとめのない話になってしまいました。
この「幸せ」については、また考えていきたいと思います。