「英語を学ぶ理由とは」(2)

前回の続き。
駿台予備校英語科主任講師、伊藤和夫によれば、
国語学習の最大の目的とは、

「日本語の理解と運用力を高めること」であるが、
「言語活動は無自覚的なものであるだけに、
それを深めようとすれば言語活動自体を意識させなければならない。」
そのため、
「現代の日本語について知り、その運用力を高めようとすれば、
それを映す鏡として、外国語(この場合は英語に限らない)を
介在させることが必要なのである。」

ということであった。
また、

英語以外の理科・数学・社会科に関しては、
(学習の将来的な効果として)期待されるのは、
「そこで与えられた知識の大きな枠組みと、
現象を処理するための思考法が他の場所で役立つことである」
のに対して、
英語教育だけが即効性を求められてい現状は不自然であり、
国語学習の目的を見失っているようにみえる。

とも述べており、
以上2点とも、ぼくも深く同意するところだ。


次は、米原万理のエッセイから。

…要するに、外国語に接することによって、
われわれは初めて母語を意識化にとらえ、突き放して見るようになる。
日本語を世界に三千ある言語のうちの
ひとつにすぎないものとして見つめ直す。


もっとも、
「外国語を知って、人は初めて母国語を知る」という真理は、
とうの昔にゲーテが言い当てているのだが。


その点から考えても、ある程度基礎を固めた母国語を豊かにし、
磨きをかける最良の手段は、外国語学習なのではないだろうか。

例えば通訳や翻訳という作業を通して、
両方の言語間を往復する。
外国語でこの概念がよく分からない。
文脈から推し量ったり、あるいはチンプンカンプンで辞書を引く。
対応する日本が出てくる。
結果的に日本語の語彙も外国語の語彙も増える。
日本語を外国語にするときも、これは何だろうと懸命に考える。
日本人はこれをどういう意味で使っているのだろうかと
国語辞典や百科事典に当たり、
それを移し換えるために外国語の辞典を引く。
こうして語彙や文型の蓄えが、
往復運動の強制力によって飛躍的に拡大していく。
また両言語の恒常的な比較によって、
双方の構造やその背後にある独特の発想法が
よりしっかりと把握されていく。


結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、
母国語を学ぶということは外国語を豊かにするということなのである。

(『不実な美女か 貞淑な醜女か』、米原万里、太字Auggie)

ここで述べられているのは、先に引いた伊藤和夫の意見と同じ内容だ。
信頼する人が自分と同じ意見をもつというのは心強いことだ
(同じ意見をもつからその人を信頼する、ともいえるわけだが)。

米原万理には、ほかにも

つまるところ、外国語は母国語以上にはうまくならない。

という言葉もあり、やはりぼくは深く頷いてしまうのだ。

そして、更なる外国語学習の効用として、こういうことを述べる人もいる。

…漢文がわが国の中学・高校の教科課程のなかで、
その占める比重の大部分を失ってから、
日本の高等学校教育には
狭義の古典教育がなくなったのではなかろうかと思われる。
なるほど古事記源氏物語はある。
しかしこれらは、ドイツの「ニーベルンゲン・リート」、
イギリスの「ベオウルフ」など古い民族的な文学作品が
「古典」と呼ばれない意味において、古典ではない。


西洋で古典といえば、ギリシアとローマのものである。
これに相当する日本の古典は疑いもなく漢文であった。
漢字を身につけた人には、
ともかくも一種の風格があったのと同じように、
西洋の教養ある人の風格は、
確かに千年以上もの伝統を持つ古典教育によると言ってよかろう。
両者の風格の差は、
その身につけた古典の内容、性格の差によるものと考えられる。
そして西洋の古典の特性の一つは、
いろいろな見方があろうが、
思弁性、論理性―
―時には思弁遊戯、論理遊戯と見えるほど―
―がそれであることには異論はなかろう。
この故に、ミュンスター大学の無機化学の教授で、
学長までもしたことのあるクレム教授は、
学生たちによく次のように言ったとのことである。

「大学の化学科に入って、
最初のうち成績のよいのは
自然科学系のギムナジウムの出身者であるが、
同時に途中からついて行けなくなるのも、
同じ自然科学系ギムナジウムの卒業者である。
古典高校から来た者は、
主としてギリシア語、ラテン語の古典を学び、
自然科学の訓練をよく経てないので、
初めのうちは実験がまずかったりするが、
理論が進めば進む程、よく適応してくる。
これは、現代の自然科学の理論を理解するには、
ギムナジウムにおいて
初歩の図解を伴うような理科の実験や説明を詰め込まれた頭には
かえって不向きであり、
それよりも、むしろ若い時に徹底的な古典的教養―
―結局、哲学的教養のことであるが―
―を受けてきている者の方が、
物事を究極的に理解するのにより適しているということらしい。」


この話をしてくれた人も化学者で、
西南ドイツの古典高校の卒業生であったが、
自分の周囲を見廻しても、クレム教授の言はまったく正しいと、
自分の体験から保証してくれた。
日本の高校とまったく違うから比較することはできないが―
―日本の実業高校は目的がまったく違うから話は別である―
―、面白い見解である。


ただ日本には、前に述べたように、
西洋のギリシア・ラテンに相当する古典を持っていないわけだが、
しいていえば、漢文が消えた現在では、
英語(あるいは一般に外国語)の時間が
これにあたるのではなかろうかと思う。
古くはベーコンのエッセイや、
近くはラッセルなどの論文を読むのは英語の時間である。
確かに、ある外国語のいちおうの著作を
読みこなせる学生と読めない学生とは、
知的な分野で、確然たる相違を示す。
そこで日本の現在の高校英語教師に、
この抱負と自覚があるかどうかが問題になろう。
ドイツの古典高校が
ドイツの若い世代の中の精鋭を作るのに果たしている役目は、
日本では英語の先生が果たしていることになるといっても、
あまりおかしくはないと思われる。
(『ドイツ留学記(上)』、渡辺昇一)

その発言や、政治的スタンスなどに関して、
ぼくは渡辺昇一とは共感できるところはほとんどないけれど、
以上の意見に関しては共感できるところがないわけではない
(高踏的なエリート意識が鼻につくが)。
受験英語が難しいのは、文法体系の複雑さのせいもあるが、
英文が扱っている内容・論旨自体が抽象的で難解であるせいもあるのである
(そのため、英語長文でよく扱われるテーマが
「日本語で」まとめられている、
「英語長文対策参考書」もあるくらいだ)。


このような抽象的な内容を理解することは、
特に「現代文」を受験科目として選択しないような
私立理系の受験生にとって、
総合的な知力の試金石となることは否定できない。
先に引いた伊藤和夫の文章にあるように、
いたずらに難しい文章を読ませればいいわけではないが、
国語学習には以上のような「総合的な知力」の育成という
側面もあるようにぼくは考えるのである。


いずれにせよ、このテーマは今後も考えつづけていくつもり。
以上はとりあえずの思考の痕跡として残しておく。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

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