「英語を学ぶ理由とは」(1)

さて、このブログを中断して、早いものでもう1年。
実はこの間、引越したり、所帯を持ったり、職を変えたりと
環境がめまぐるしく変化する日々を送っていた。
だから、PCに向かってゆっくりと考えをまとめる時間がとれなかった。
でも、こんなに長くなるとは思っていなかった…。
しかし、ものを考える時間をなんとか確保できる環境になったので、
今日から何事もなかったかのように再開。
とりあえず、今の職とも関係のあるこのテーマから。


英語を学ぶ理由とはなんだろう?
これは社会人とか大人の話でなくて、中学生や高校生などの話で、
なぜ文部科学省
英語の学習の比重が大きいカリキュラムを設定しているのか、
そして大学受験においても重視されるのか、ということだ。


――敗戦国として、GHQの教育カリキュラム変革に従ったから?
確かにそれは「英語を学校で勉強する」ことの原因かもしれないけど、
60年前の指示に未だに従わなければならないこともない。
戦後一貫して英語教育がの充実が推し進められたのには、
「強制されたから」ということ以上の理由があるはずだ。


――英語が国際語として最重要であり、
この言語を読み、書き、話すことは個人にとって、
そして国にとっても有益だから?*1
…おそらく多くの人がこのように答えるんじゃないかな。
確かに、英語が出来ると今の日本で生きていくのに非常に有利だ。
大学入試はもちろんのこと、
会社に入ってもTOEICの点数が高い方が出世に有利なときもあるし、
ネットの世界でも色々なページの英語が読めるのと読めないのでは
(翻訳ソフトがあるとはいえ)情報収集にかなり差がつく。
そもそもPCとかインターネット自体英語圏で発明されたものだから、
英語ができるのはこれらのシステムを理解するのに大いに役に立つはずだ。


ただ、ぼくはこれが英語を学ぶ本質的な理由ではないと考える。
これは、あくまで英語を学んだ後についてくる結果・利点であって、
目的ではない。
英語を学ぶ本質的な理由は他にあるはずだ。


なんでこんなことを考えるかというと、
この「英語を学ぶ理由」の本質をはっきりさせておかないと、
英語教育の方針が定まらないから。
――とにかく難しい英語の本を読ませた方がいいの?
――小学校から英語を勉強した方がいいの?
――それとも、もっと幼いうちから
ネイティヴ・スピーカーと話す機会を設けて、
英語の発音・アクセントに慣れさせた方がいいの?
…などなど。


10年以上前、まだ現役の受験生だった頃から
ぼくはなんとなく以上のようなことを考えてきた。
最近、これに関して続けざまに面白いものを読んだので引いておく。


ひとつめは、
泣く子も黙る駿台予備校英語科主任講師、伊藤和夫から。
まずは受験科目という観点からみる、英語の特殊性について。

…国語についての自覚を深め、その能力の向上をはかるためには、
国語以外のコトバの学習が必要である。
もちろんそのコトバは英語でなくてもよいのであって、
アラビア語でもよい、中国語でもよい、
いや、そこまで行かずとも、古文や漢文でもよい。
必要なのは自分の姿を映し出す鏡である。
英語学習に際して、
ある段階から先では日本語という鏡が必要であったように、
国語の学習のためにも、
ブラックボックスの存在に気付かせるための
「外国語」という鏡が必要なのである。


中学から高校にかけて、
現在の「英語」教育ほど即効性を求められている科目はない。
自然科学と言い、地理、歴史と言っても、
期待されるのは、そこで与えられた知識の大きな枠組みと、
現象を処理するための思考法が他の場所で役立つことである。
英語だけが、当面の必要を満たせるかどうかという
低次の効果だけを云々され、
日本語を中心とする言語能力の涵養という基本は
忘れられていてよいものだろうか。


日本語と英語という二つの言語から等距離のところに身を置き、
二つの鏡を映しあわせることによって、
個々の言葉を離れた抽象的な思考領域と
「物自体」の存在に気付かせることが、
語学教育の第一の意味であるべきだと筆者は考える。
高校から大学受験の段階で
日本語も満足に使えない多数の学生を放置して、
小学校から英語を教えて子どもの「ゆとり」を奪うなど愚の愚である。
大学入試の中で数学が占める役割も、この四半世紀に著しく低下してきた。
子どもの好奇心と親のはね上がった願望に訴えるだけの教育いじりは、
そろそろやめたらどうか。
何が本質であり、
子どもの一生の中で本当に必要なものは何かを
十分に見定めた上での教育内容の選択と
それにふさわしいテスト形式が今こそ求められているのである。
『予備校の英語』(13.大学入試と日本語)、
伊藤和夫、研究社、一九九七年、太字Auggie)


じゃあ、結局英語を学ぶ理由とは何か?
これについて、伊藤先生は実にクリアーに答える。

…日本語と全く別の次元で行われる外国語教育が、
本の学校教育の中で果たしてその本来の役割を果たしうるか
という問題がある。
その点について詳述する余裕はないが、
筆者は外国語教育の最大の目的は
日本語の理解と運用力を高めることにあると考える。
テレビが学生の生活を侵食するにつれて、
国語力の低下を嘆く声は大きい。
しかし、それを理由に中学や高校で現代国語の時間をふやし、
難しい文章を教えれば言語能力が増大するという前提のもとに、
表現内容が難解な文章、
つまり成人の経験を前提した人生論や文学論、
基礎概念の明確な定義無しでは
理解できぬはずの哲学的論文を読ませたり、
文芸作品の鑑賞をさせたりしても空まわりに終わるだけである。
内容的に平易な文では、たとえ細部に誤解があっても、
学生はそれを顕在的に意識する機会がないため、
学習に興味を示さないと言われるかもしれない。
確かにその通りであるが、そこに現代語による現代語教育の限界がある。
言語活動は無自覚的なものであるだけに、
それを深めようとすれば言語活動自体を意識させなければならない。
人は鏡に映さなければ自分の顔を知ることはできない。
現代の日本語について知り、その運用力を高めようとすれば、
それを映す鏡として、外国語(この場合は英語に限らない)を
介在させることが必要なのである。…


…日本語への置きかえ、或いはその逆という作業が
英語の学習にあたって必須であり、
日本語ひいては言語一般についての能力を養う上で
有意義であることを述べた。
外国語という別次元のものを導入するからこそ、
日本語の基本語彙と語法について
自覚的に学習することが可能なのであり、
教室で英文に対する訳語の是非を論じ、
場合によってはより明快な訳文を求めて努力することに
意味が生まれるのである。
(同上、「わたしの採点法」太字Auggie)

我が意を得たり!
一読してそう思った。


確かに、英語だけが将来の実用性を云々されるのはおかしい。
高校の頃英語を勉強していて、
一番面白かったのは自分の言語観が変化していったことだった。
ネイティヴのようにスラスラ英語を読んだり、
話したりすることへの憧れは特になかった。
緻密に構文を分析することによって、
英語と日本語の相違点と共通点を発見していくこと。

だから、最近の英語教育の傾向として、
精読よりも多読というような、
生の英語に多く触れることで
そのまま「無自覚的に」外国語を吸収させるような学習方法には、
ぼくは強い違和感をおぼえるのだ。

(つづく)

予備校の英語

予備校の英語

*1:この意見をもっと深く考えると、「日本という国は、古くは中国、明治以降は西洋というように、外国の文化・技術を輸入して、それを独自に研究・改良することで発展してきた国だから」となるかな。これはちょっと面白い点なので反論は次回の(2)で。但し、前もってこれに答えておくと、ぼくの考えはこれに反対。