『ギャラリーフェイク』32巻、細野不二彦、小学館


ギャラリーフェイク』が完結した。


といっても、これは単行本(コミック)のこと。
スピリッツでは今年の2月頃に既に完結してしまっていたらしい。


細野不二彦は私にとって特別な漫画家だ。
『ママ』という「教養小説」ならぬ「教養漫画」を読んでから目が離せなくなった。

『愛しのバットマン』は野球に暗い僕でも(暗いから?)面白かったし、
『りざべーしょんぷりーず』は全2巻ながら、完成度を備えた作品だろう。
あどりぶシネ倶楽部』『うにばーしてぃBOYS』『BLOW UP!』は、
取材不足、または構想が練れていないせいか完成度としては疑問が残るが、
これらの作品からは作者の関心の広さを窺うことが出来、
次作に期待することが出来た。


…さて、『ギャラリーフェイク』である。
連載が始まったのはかれこれ10年以上前のことだろうか。
美術関係のうんちく漫画でありながら、キャラも立っており、
きちんとエンターテイメントとして成立している漫画として喜んだのを憶えている。

フジタの芸術に対する美学に頷きながら、無知な田舎出身の学生だったわたしは、
この漫画で随分美術の知識も増え、美術の入門書としてお世話になったこともあった。
実際、この漫画のエピソードを基に芸術学のレポートを書いたこともある。


だが、恐らく講談社漫画賞を受賞した辺りから、細野の筆はあやしくなった。

経歴に即して考えるなら、細野の筆使いは、
『Gu-Gu-ガンモ』『さすがの猿飛』などの初期作品から、
『ママ』で一気に変わった。
みる人によっては「下手になった」というかもしれないが、
端的にいうなら、デフォルメされた丸い線を捨て、
ストーリーマンガを綴るためのゴツゴツとした太く描写的な絵になった。
この変化は『ママ』という作品を通じて行われ、
この漫画を最初から最後まで読むとその変化がよくわかるのだが、
私はこれを歓迎したのをおぼえている。

確かに絵は無骨なものになったが、その分、
その絵によって構成される話には説得力があったからだ。


しかし、受賞してから(と話を簡略化してしまおう)は、
この絵にある種の開き直りが感じられるようになる。
――俺は意味のある文化的な漫画を書いているのだから、
多少絵や構成が拙くてもいいじゃないか――というような。


これは細野の純粋なスランプだったのかもしれないが、
いずれにせよ、『ギャラリーフェイク』が魅力を失っていったのは事実である。


なので、それほど期待せずにこの最終巻も読んだのだが――
予想に反し、「フジタ窮迫す!」からの最後の9エピソードは、
プロットがよく練られており、面白かった。
フジタがこだわっていたモナリザにからめ、
ワーナー捜査官、ラモス、ジャン=ポール香本などが勢ぞろいして
活躍するのは読んでて痛快だ。
(この32巻には、他にも三田村館長やブリキオモチャ愛好家の高倉刑事など、
 おなじみのキャラが登場しており、物語をまとめる際にあたっての
 ファンサービスも忘れない)


だが、やはりいかんともしがたいのは細野の画力の無さと、
ストーリーを語る構成力の無さだ。
ここでいう構成力とは、漫画技法的な構成力である。
例えば、見せ場は見開きで、とか、
ページをめくるところまでひきつけておいて、
ページをめくったところで一気に新たに展開させる、などがそうだ。


最終エピソードなどは、内容・筋はよく練られているだけに非常に残念だ。


もしかして、細野は大物になってしまって、
彼に進言する編集者はいないのだろうか?
だとしたら、不幸なことといわざるをえない。
漫画は、編集者が作品に与える影響は他のジャンルに比べて大きいと思うからだ。
細野には、もう一度、初心に返って物語を綴る方法を問い直して欲しい。
『ダブルフェイス』や『ヤミの乱破』は読んでないけどどうなのだろうか。


あと、最後にオタクな話だが、
三田村館長のキャラが最後の最後に変わってしまったのも残念だ…。
フジタが優等生的な美人を陵辱し、
そして時にはエレガントにやり込められる所にエロチシズムを感じていたのに……。


ギャラリーフェイク (32)

ギャラリーフェイク (32)