『これが僕の回答である。 1995-2004』、押井守、インフォバーン、二00四年。

 キャメロン、ウォシャウスキー兄弟、そしてタランティーノを筆頭として、
世界の「マニア」な監督から圧倒的な支持を受ける、
映画監督押井守のエッセイ集。
彼の『攻殻機動隊』の映像・世界観が『マトリックス』に大きな影響を
与えたのはあまりにも有名な話だ。

2004年のカンヌに『イノセンス』が招待されたのは、
もちろん審査委員長であるタランティーノのプッシュによるものだろう。


本書は、『攻殻機動隊』から『イノセンス』までの期間に、
雑誌『ワイアード』と『サイゾー』に連載されたものが集められている。
僕は押井が好きなので、何が書いてあっても興味深く読むのだが、
そのうち、特に面白く思ったものをいくつかメモしておく。

ダイアログに関しては、いまは自分でやることが多いけれど、
別に自分のダイアログがいちばん素晴らしいと思っているわけではない。
僕はどちらかというと引用の多い人間で、自分が考えたつまらない台詞より、
自分が素晴らしいと思った言葉の方がよっぽどいいと思っている。
オリジナリティという言葉にヘンにこだわる人間がよくいるが、
そんなつまらないところで自分の個性を主張する必要はないわけで、
逆に言えば、自分が素晴らしいと思った言葉を見つけてくれば、
そこがつまり自分の個性となる。
大切なのは、その言葉にどういうシチュエーションをあてはめ、
誰にどういうふうに語らせるかだ。


また、「他人の言葉を借りるのも一つの方法」という題の項で
紹介している押井の読書方法が僕と全く同じであることに驚いた。
僕の場合は「真っ緑」になるのだが。

 ここ数年、僕はマーカーを持たないで本を読んだことがない。
小説だろうが学術書だろうが資料だろうが、
片っ端からマーカーで線を引いていく。ちょっとおもしろい文章があれば、
常に自分のなかに溜めていくようにしている。
 だから、文庫本だろうが新書だろうが読み終えた後は
本がマーカーで真っ黄色になる。
で、マーカーラインが多い本はいつも座右に置いておき、
二、三箇所しかラインがない本はその箇所をPCに打ち込んでしまって、
あとは誰かにあげてしまう。
つまりマーカーラインの量が、本に対する価値基準となる。
正直、受験生が参考書を読んでいるのとほとんど同じような状態だ。

「一度でも何らかの形で発表されたものは、すでに全ての人の共通財産だ」
と言い切る押井の姿勢には僕も深く同意する。

バーチャルリアリティなんてそんなもの……」
 仮想現実の研究は、なんの役に立っているのか。
学者さんたちは「身体障害者の人が健常者と同じような仮想体験ができる」
とかいったことを例に挙げて、
それを「人間としての体験の幅の拡張」であるとかいう。
しかし、僕は実際には逆だと思う。
あんなものは人間の情緒面での画一化にしかならない。
身体障害者の人ならば健常者とは違う世界観を持っている。
そこには違う人生の体験の幅があるはずだ。
なぜ、その機会を奪おうとするのか?
 移動手段を確保するとか、車椅子を改良するとか、
手が動かない人のためのタイピングシステムの研究とか――
それは結構なことだと思うし、意味がある。
けれども「体験」という生理的な部分を
仮想現実によって補完するなんて明らかに間違っている。
そんなものは彼らの生理的な部分までを健常者と同じ体験に
統制しようとするということじゃないのか?

バリアフリー」という概念が、「体験」にまで拡張できるか否か、
という問題提起と受け取れるが、
去年(2004年)発表された『イノセンス』で衒学的なダイアローグによって
展開されているテーマもこれとつながっていることに気づく。


 また、押井はこの前刊行された、『宮崎駿の世界』というムックで、
宮崎駿の特集本でありながら、上野俊哉と共に、
スタジオジブリ宮崎駿を「宮崎スターリニズム」と批判しているが、
押井の批判は的を射ているように思われる
(ちなみに、このムックには菊地成孔もやはりジブリ批判、
 というか久石譲批判の原稿を寄せており、これも面白かった)。
 

サイゾー』には、今も押井は連載しているらしい。
そして、山形浩生も同じくらいのエッセイを連載していることを知った。
次はこれを本にしてくれないだろうか。

これが僕の回答である。1995‐2004

これが僕の回答である。1995‐2004