『押井守の映像日記 TVをつけたらやっていた』、押井守、徳間書店、二〇〇四年

「資料やビデオに頼らず(いい加減な)記憶に基づいて映画を語った」本。
カバーには、

押井守が自宅のテレビで(たまたま)鑑賞した映画について
好き勝手に綴った、異色の<無責任>映画エッセイ!

とある。
なにしろ本当に適当なスタンスで、
映画を観てたら途中で寝ちゃったけど、
ケーブルテレビだから毎日同じプログラムをやっていて
翌日同じ映画の違うところから観始めて
やっぱりまた別のところで寝ちゃったとか、
限りなくだらしなく映画を観て、だらしなく感想を述べている。
最初は勘違いしたタレントの日常エッセイを
読まされているような気がして苛立ちさえ感じたが、
巻末のインタビューを読んで印象が変わった。

―― 常々、押井さんは
  「映画館には行かないけど、TVの映画は見ている」
  とおっしゃっていたので、
  ならばその映画の感想を徒然なるままに書いて頂くと
  面白いコラムになるのではと思い、
  この連載を始めて頂いたわけです。
押井守 うん。この連載の1回目に、
   なぜ僕は映画館に行かないのかとか、
   なぜこんな断定的な見方を
   するようになったのかを書いている。
   30回続けてきたけど、
   その中で最初から最後まで通して見た映画はほとんどない。
   うちの奥さんに言わせれば
   10分くらいしか見てないものもあるしね。
   たまたまビデオ録画して見たものがあって、
   それは妨害があっても一旦止めて、
   また見られるから一応最後まで見ている。
   そうでない限り、あ、もう新幹線の時間だとか、
   ガブのうんちを片付けたり、
   ガブの散歩の時間だという感じになってしまうんだよね…(略)…
   …でも、普通の人の映画の見方ってそういうものだと思う。
   つまり、ながら見だよね。
   途中でトイレに行き、電話がかかれば席を立つ。
   1本の映画を通して見ることはまずないんじゃないかと。
   言い換えれば偶然性で見るわけ。
   となると、これを見るぞと気合を入れた映画と、
   偶然見た映画はおのずと違ってくるはずである。
   僕はこの連載で、偶然見た映画が
   果たしてその人にどんな風に映ったのか、
   それを書きたいと思った。
   一般の観客の最大公約数的な見方というのは、
   まさにこんなものであって、
   その立場で何が書けるかということだよね。
   だからわりと真面目。
   真面目に考えて、そういう結論に達した。…(略)…
    …多分、試写室や映画館で映画を見るほうが特殊であって、
   僕は20年前から、
   映画はもうとっくに映画館だけのものではなくなっている
   と思っている。
――ビデオやDVDが普及しましたからね。
押  そうだよ。映画館でヒットした映画と、
  レンタルビデオ屋でもっとも回転率のいい映画が
  常にちがうというのは、
  まさにその証明みたいなものだと思うよ。
  みんな劇場とはちがう体験を求めている。
  そういうようなことを真面目に考えて、
  この連載を始めたわけで、
  まあ「やらない?」と言われなければ、一生やらなかったけどね。
  でも、やる以上は、そういうポリシーでやった方が正しいと思った。
――原稿を読む限りでは、10分しか見てない感じはしないのですが……。
押  見てない部分は想像で繋げて行く―
  ―これが映画だ(笑)ってね。
  もともと映画を見終わったときに、
  そのすべてを憶えている人はいない。
  どこかで必ず記憶の捏造が始まっている。
  まさに僕が俳優を捏造しちゃったりとか、
  勝手に想像するのと同じであって、おそらく映画というのは、
  そうやって見た人が再構築していくものである、と。
  だから2時間半の映画を丸ごと見て書こうが、
  15分見て書こうが大差ない。
  ちがう言い方をすると、映画というものは、
  見た映画と語られた映画は別物なんだという大前提があって、
  その人のなかでその映画は成立し、
  それがもっとも現実的な映画であるということになる。
――ということは、映画を言葉で表現することは出来ない?
押 そういうことだと思うよ。
  蓮見重彦とか、現象学的に映画を語るというか
  「映画はテキストだ」というスタンスで映画評論をやっていて、
  かっこいいとも思ったけど、
  基本的には映像を言葉で語るいかがわしさが
  ついて回っただけだった。
  いわば蓮見重彦の映画を書いただけだよね。
  われわれにその映画は体験出来ない。
  映画というのは、まさに見ることでしか
  体験する方法がないわけだし、
  見たことを確認する手立てもない。

一理ある。
ぼく自身はどうも貧乏性なので、
どうしても家でビデオやDVDを観るときも
「これを見るぞと気合を入れて」観るけど、
映像体験がその環境に影響される、というのはよくわかる。
というか、
同じ映画でも昔観た印象と全く違う映画なんてザラにある話だ。
そもそも、芸術(に限らず)体験が
各人で異なったものであることは当たり前の話で、
批評というのは、
その「本来各人で異なっているはずの体験が
あたかも皆が同じ体験をしたかのように感じる不思議さ」
や、あるいはこれの正反対の
「物理的には同じものを体験しているはずなのに、
各人で異なったものを体験してしまうことの不思議さ」
についてあれこれと考えをめぐらすことであるはずだ。
その意味で、
本書は正統的な映画批評の流れに位置するものといえるのかもしれない。
一見、とてもそうは見えないにけどね。


さて、最後にゴダールへの言及についても引いておく。

ゴダールの場合、その作品は何でも一緒。
ゴダールの模倣者はたくさんいたけれど、
ゴダール以上に面白い監督は誰もいない。
というのも、ゴダールの作った映画はどうでもよくて、
問題はゴダールというおっさん。
ゴダールは映画史の中に一人しかいないから、
真似しようがないんだよ。
彼は映画を完全に変えちゃった男で、
映画に自意識を持ち込んだ。
映画の歴史はゴダール以前とゴダール以降しかないと
言えるのはそのためなんだよね。
ゴダールの映画はゴダールそのもの。
だから何を作っても一緒になる。
評論家の中にはゴダールの映画が美しいという人もいるけど、
僕にとって美しかったのはアンナ・カリーナだけ。
だから彼女の出ていた『アルファヴィル』と、
もう一本は『ウイークエンド』(が好きな映画)になるかな。
――カリーナと『ウイークエンド』の女優ミレーユ・ダルク
  ふたりのヘアスタイルはどちらもおかっぱですよ。
押 その通りです(笑)。
――なるほど。やっぱりおかっぱですか(笑)。

おかっぱ云々はどうでもいいが、
この「自意識」はダブルミーニングとも解釈できるんじゃないかな。
即ち、
ゴダール自身の自意識」と、「映画という芸術自身の自意識」。
もちろん押井は「ゴダール自身の自意識」について
述べているわけだが、
押井のこの言葉は本人も意識せずに
ゴダールのスタンスを上手く言い表していると思う。


ゴダールは映画制作に特有の決まりごとを利用(悪用?)して
映画を作った。
ジャンプショットの多用やぎこちないシーンのつなぎ方は、
映画の根本的なルールが編集であることを示し、
『はなればなれ』にあるような完全無音のシーンは、
映像と音が同時に再生されるということが
いかに特殊な事態であることかを示している。
つまり、ゴダールは映画創作と同時に
映画という形式についての批評も行っているわけで、
これは映画に映画自身を語らせていることに等しい。
ぼくが「ゴダールは映画に自意識を持ち込んだ」
という押井の言葉が
ダブルミーニングであると述べたのはこういう理由。
押井もうまいこと言うな。
この発言では意識してないかもしれないけど、
映画批評家/監督としてのゴダール
押井が評価しているのは『トーキングヘッド』を観れば明らかです。


そして、イラストが桜玉吉なのも嬉しい。
玉吉さん、元気なのかな…。
20年以上のファンだから心配になります。

押井守の映像日記 TVをつけたらやっていた

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