『A』、1998年、森達也監督

TVディレクターとして、数多くのドキュメンタリーを制作する森達也が、
オウム真理教(現アーレフ)の広報担当者・荒木浩を被写体とし、
社会とオウムの双方を撮り続けたドキュメンタリー映画

 オウムを絶対悪として描くことを強要するプロデューサーと衝突し、
自主制作として本作品を完成させた。
 撮影は、地下鉄サリン事件が起きた翌年1996年3月から、
この教団に破防法の適用が却下されるまでの1997年4月までの約1年間行われ、
136時間にも及ぶ素材テープを編集、1998年1月には一般劇場公開された。

 公開後、賛否両論、さまざまな論議を呼び、ベルリンや香港、釜山や
バンクーバーなどの映画祭で高い評価を受けている。


 「A」とはもちろん「荒木」の「A」だろうが、それは同時に教団名である
「AUM」の「A」であり、教祖「麻原」の「A」であり、
そして現代社会における匿名性の「A」でもあるのだろう。


 森は、このフィルムにおいて中立的立場であるよう努め、
地下鉄サリン事件後、公判によって事実が明らかになった後も
この教団に留まり続ける信者達をカメラに収める。
 その過程において、私服警官が信者の一人を不当逮捕するそのやり口
(この卑劣な警官は「ガチンコ! ラーメン道」の佐野に酷似しているのだが、
そんなことはどうでもいい。結局、この逮捕は、まさに森が偶然撮影していた
この森のフィルムにより不起訴に終わる)や、荒木には口当たりのよいことを
言っておきながらテレビ報道のカメラには手のひらを返したような発言をする
近隣住民など、日本社会の陰湿な構造も明らかにされる。


 映像とは極めて政治的なものだ。単なる風景を撮影したものであっても、
そのコンテクストによって、その映像が喚起させるものは幾通りもあるだろうし、
もっと言うならば「単なる風景」などというものもありえない。
 この点に自覚的な森は、平板に事実を撮影するというよりも、
対立する意見の両者を記録していく方法を選んでいる。
つまり、不当に人権を蹂躙されているかにみえる教団側の弁護だけでなく、
教団外の一般人として、教団に対する疑問を荒木に問うのである。


 おそらく、このフィルムを観る全ての人々が抱くであろう疑問――
オウム真理教地下鉄サリン事件などを起こしたのは公判により明らかなの
だから、このことについて社会への謝罪はないのか」そして、
「欲望を捨てろというが、『解脱したい』というのもまた一つの欲望なの
ではないか」――が、終盤に森自身によって荒木に提示される。
 「裁判によって事実関係が明らかになるまでは教団の意見は控える」
と述べていた荒木は、前者には口ごもり、後者には深く考え込んでしまう。


 森も述べる通り、出家によって苦しむのは当人でなくその家族なのであり、
宗教的な修行生活に入る人間というのは、周囲のことを気にかけない、
とんでもないエゴイストであるという一面もあるのである。
この2つの問題に対して、若き教団広報副部長は答えを用意できず、
それはこのフィルムの続編、『A2』『A3』に期待することとしたい。


その政治的な問題意識を別としても、このフィルムはとても面白い。
2時間惹き付けられてしまう。
それは森の編集によるところなのかもしれないが、
もっとドキュメンタリー映画に触れる機会があってもいいだろう
(あと、ショートフィルムも)。
森がマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観て
述べた感想で、

「確かに面白かったけど、特に強調するほどでもない。
なぜなら、この程度は、ドキュメンタリーとしては平均的な面白さだから」

というのが確か朝日新聞に掲載されていたが、
これは恐らく偽らざる実感なのだろう。


この『A』は近所のTSUTAYAで借りることが出来たが、
レンタルでも、もっとおいて欲しいジャンルである。


A [DVD]

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