これも文章技術のひとつですね。
まえはあまり好きではありませんでしたが、たしかに、対談や軽いエッセイにはピッタリの技法かもしれません。
(笑い) などの挿入について
書かれた言葉は音声を伴わないので、対談、講演などではその雰囲気を文字で補うことがある。また、心情を、昔風に言えば「かげの声」として書き足したりした。その一つに「(笑)」あるいは「(笑い)」がある。いつごろから流行ったのだろうか。
この「(笑)」のように、かっこでつけ加える書き方が増えてきた(ように思える)。このように。
流行というのはえてして不便を我慢するところに価値がある(たぶん)のだから仕方がない。
(中野京子『名画に見る男のファッション』)
取ってつけた(たぶん)なので前後にうまくつながっていない。つまり、読むリズムが乱されるので、テクニックとしては稚拙といえる。
私は臆病ものなのだ。気弱になると、仏壇の前に座り込む(情けない)。
これは前に述べた事に解説を加えた後思案を付け足しただけの付け焼き刃的テクニック。もう少し上手にくっつけたなと思うのが次。
(その木は)ホース・チェスナッツそっくりに見えた(素人目に、である、もちろん)。
この軽さがよい、という読書人もいるだろう。
次はクラスの男女数人が集まって川原で花火大会をした17歳を思い出しての一文。
今日は男子も来るということで、私は少しおしゃれをしていたと思う。もしかしたらその中に意中の男子でもいたのかもしれない(いたのかもしれないと書いたが、いました確実に)。
(犬飼愛生 京都新聞 2010/7/26 ①)
少し引いて添えた「いたかもしれないと書いたが、」は蛇足だろう。(いました確実に)だけの方があっけんからんとして楽しめる(間違いなく)。
締めとして、軽妙なタッチが楽しい例を。
その時はっきり思った。他人を威嚇するような大きさのダイヤのリングは決して身につけるまいと思った。(どうせ手に入れることもできないけど)
wikipeia にもこの項目がありました(笑)。