「ウーマンホール」はオモシロイ。
この手の話題になったら、わたしもこの語を使ってみます。
ピー・シー (PC)
PC(politically correct / political correctness)はもうすっかり聞きなれて、耳にできたタコも干からびてしまった。が、訳語が「政治的に正しい / 政治的正しさ」などと直訳生硬な日本語なのでわかりにくい。わかりやすくいうと「ことば遣いや行動など表現全般において性差別をしないこと」。politicallyを「政治的に」と訳したのでわかりにくくなった。誰がこんな訳語をあてたのだろうか。
ことばによる差別の筆頭に男女差別がある。例えば「作家、棋士」は男女の区別がない。ないのでPCに適っているのに「女流作家、女流棋士」と呼ばれるのを嫌う人もいるそうだ。嫌う人の観点に立つと、「女のなかでは一流だが男と比べるとちょっと劣る」という男の意識が潜んでいるらしい。当事者がそう思うのであれば男の側から否定するのは難しい。
英語でもこのPCの観点から差別的な語が消え、新語が生まれた。たとえば、議長が女性なのにchairmen と呼ぶのは不適切だから chairpersonと呼ぶようになった。そしてfiremanがfirefighter になったのがその例。
この –man,–woman が –er になったように、日本語でも…士、…家などとなった。日本語でも男性の「看護婦」が増えてきて、こんにちでは性別に関係なく「看護士」と呼んでいるのもPCのおかげ。この工夫を避けると次例のように面倒くさい。
講演も本質的には二者過程である。多くの講演者、講義者が、聴衆の「うなずきマン(ウーマン)」にいつの間にか反応して語っている自分に気づく。「うなづきマン(ウーマン)」は講演の不可欠な要素である。
(仲井久夫『私の日本語雑記帖』岩波書店)
若いときに優れた美しい、力のある作品を書いていた作家が、ある年齢を迎えて、疲弊の色を急激に濃くしていくことがある。「文学やつれ」という言葉がぴったりするような、独特のくたびれ方をする。書くものは相変わらず美しいかもしれない。またそのやつれ方にはそれなりの味わいがあるかもしれない。しかしその創作エネルギーが減衰していることは誰の目にも明らかだ。それは彼 / 彼女の体力が、自分の扱っている毒素に打ち勝てなくなってきた結果ではないだろうかと僕は推測する。
どこにもお調子者がいて、history(歴史)はhis + storyだからこの語にも男優先が潜んでいると噛みついた人がいたとか。もちろんこれはまったくの冤罪で語源的に正しくない。
中にはPCの動きを苦々しく思う人もいたらしく、「じゃなんだね、manhole(マンホール)をwomanholeにしようじゃないか」とイヤミを吐いたら、ご婦人が「汚いものはそのままで構わない」と切り替えされたとか。
世の中の新しい流れは歓迎する者と快く思わない者が出てくるのは世の常。賛成反対の両者とも真っ向からいがみ合わずにmanhole vs. womanhole論争のようにユーモア精神を発揮したい。
いや、本当にそうですね。
正しすぎる思想は、太くなりすぎて、ときに自由な方向転換が難しくなるときがあります。そういうときにユーモアが生きてくるんですよ、きっと。