理屈

「論理」の力は強力です。

理屈

「理屈と鳥モチはどうにでもくっつく」とか「理屈は後から貨車で付いてくる」と、うがった言い草がある。

 兼好法師もその一例を記している。次がその抄訳。

 他人の田を自分のものだと訴えた男が裁きに負けた。腹いせに「その田を刈り取れ」と命じた。命じられた人たちはその田に行く途中の田を刈り始めた。それを見た人が「この田んぼは問題の田ではない。どうして刈るのだ」と問い質した。すると田を刈っていた男の一人が「刈り取れと命じられた田も、違法なのだから、どこの田を刈っても同じことだ」と答えた。とても面白い理屈だ。(『徒然草』第二百九段)

 

 

 面白いのは、違法なことを命じられた男たちが、非とは判っていながら、命令には逆らえない腹いせに取った行動だ。気骨は身分も立場を超えるものだと、兼好法師もニンマリしたに違いない。

 

理屈、論理の力は強力です。

事態を整理して、よい方向に導く光となることもあれば、周りの闇をさらに色濃く塗り固め、抜け出せなくなる重力となることもあります。

西洋では、これをratio, Verstand (悟性)と呼び、Intellectus、Vernunft(理性、知性)と区別してきました。前者はときに「計算的理性」として批判の対象となりました。計算的理性にはブレーキがなく、放置されると暴走します。20世紀におけるその帰結がアウシュヴィッツユダヤ人であるアドルノにとって、あまりにも能率的に計画・実行されたホロコーストは二重の意味で悪夢でした。

 

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

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この力はもう少し広く、「物語化」の力と言ってもいいかもしれません。

人は無意味な苦しみには耐えられませんが、意味のある苦しみは「試練」として進んで受容することもできます。

わたしたちに必要なのはこの理性の力、物語化の力を自覚することなのではないでしょうか。