『私の遍歴時代』、三島由紀夫、ちくま文庫、1995年

三島由紀夫のエッセイ集。
作品もそれほど読んでないくせにいきなりエッセイを読むのもどうかと思うが、
本棚を整理するために読む。
あまり面白くなかったので売る。


とにかく太宰嫌いがすごい。


また、近代を嫌い、古代(日本・ギリシア)を讃美する姿勢も目立つ。


太宰嫌いなのはなんとなくわかるけど、古代の讃美はやっぱりついていけないな。
近代嫌悪、古代讃美が顕著なところを引いておく。

私はやっと詩の実体がわかって来たような気がしていた。
少年時代にあれほど私をうきうきさせ、
そのあとではあれほど私を苦しめてきた詩は、
実はニセモノの詩で、抒情の悪酔だったこともわかって来た。
私はかくて、認識こそ詩実体だと考えるにいたった。
それと共に、何となく自分が甘えてきた感覚的才能にも愛想を尽かし、
感覚からは絶対的に訣別しようと決心した。


そうだ、そのためには、もっともっと鷗外を読もう。
鷗外のあの規矩の正しい文体で、冷たい理知で、
抑えて抑えて抑えぬいた情熱で、自分をきたえてみよう。


…『ユリシーズ』と『失われし時』は、
近代人の神経と感覚のみがよく享受し得
よく耐えうる内面生活の物語化であると同時に、
古代人やルネサンス人が敢えてしなかったところの
「自我への媚態」をどこかにひそめている。
自我は自我自身への媚態を必要とするまでに孤独に疲れてきたのであろうか。
そうは思えない。
私はそういう媚態が、
近代性そのものの一つの疾患だと思われるようになった。
近代性というものは一種の偏執狂的情熱で、
森羅万象から近代性を採集する。
こんなに自己自身に渇いた時代精神は他にはない、
近代性はいわば熟達史で、
あらゆる家具調度に「近代」という封印を貼っておかねば気がすまない。
つまり近代は近代の中にしか住めないのだ。
その結果、先入観と新しい観念との区別がつかなくなり、
果てしもない堂々めぐりがはじまるのである。
いわば近代とはナルシスの時代である。
所謂近代的神経と近代的感覚との己惚れを助長にすぎない詩作は、
この堂々めぐりの中に身を投ずることだった。

完全に同意はできないけど、まあそういう見方もあるかな。
鷗外を「抑えて抑えて抑えぬいた情熱」と
表現しているところなんかはさすがだ。
実はぼくも近代的な甘えた自我・肥大した自我には
イヤになることがある。
それの典型が日本文学の伝統である私小説
最近よくいわれる「カラオケ化する文芸」だと思うけど、
ただ、だからといって古代やルネサンスに戻ればいいのか、
というのが素朴な反論だ。
結局それは反動にすぎないのであって、
根本的な解決にはならないように思われる。


ただ、ぼく自身こうして
「カラオケ化する文芸」の代表である
ブログをせっせと書き綴っているわけで、
近代的な甘えた自我そのものなわけだけどね。