一個人の想い、恨みを、受動態の形でしかことが表現できないときがあります。
戦争にもっていかれる / 戦争にとられる
鳥越俊太郎 (私の父は)対人恐怖症になって最後は会社も辞めてしまうんです。で、寺で修行したりしていたんですが、戦争で中国の北のほうにもっていかれまして。
菅原文太 応召ですね。(中略)おれの親父も絵を描くようになって、いいところまでいったんだけど、肝心な時に戦争にとられちゃって……。
何と悲しい言葉だろう。何が悲しいか。戦争は人を人間扱いしない。人は勝つための道具にすぎない。あたかも畑になっているトマトのように家族からもぎ取り、引き離してしまう。兵隊は「物」扱い。だから「兵隊にとられ」て「南方にもっていかれた」のだ。何と理不尽な言葉だろう。大黒柱の父親が、長男が戦地へ行かされる。今東光原作を映画化した『悪名』シリーズの『新・悪名』で「父ちゃんは戦争に取られ、長男はやくざになって」と武原豊が言う。
「数えの二十歳で兵隊検査だ。そうなると、すぐに入営で、外地へもっていかれる。それは死ぬことだったんだ。
花森安治の『一銭五厘の旗』を買って読む。1978年に亡くなった先輩編集者の、生涯の書というべき一冊。一せん(銭)五厘とは、かつてのはがき1枚の値段、それよりも安かった昭和のいのち。軍隊にとられ、戦後は雑誌「暮らしの手帖」ひとすじに生きた人が、毎日書いた文章から、29編を選んだ直言集だった。
戦争を生き延びた人たちがその戦争の理不尽さを語るとき必ず使う言葉だ。
時代に翻弄されるような、自分の力ではどうにもならない大きな力がはたらいているとき、個人の行動は受動態でしか語ることができません。
非力な一個人の悲しみと、大きな力の恐ろしさを感じる表現です。