『こちトラ自腹じゃ』、井筒和幸、ワニマガジン社、二〇〇二年

井筒和幸は僕の好きな監督の内の一人だ。


巻末の「あとがき」に、僕は素直に納得することができる。

…映画評論というものは、そう簡単に出来るものではないのです。
 人物、状況設定の表現、時代との照合、監督の主張が
どれだけ伝えられているか、その内容はどうなのか、
俳優は、カメラマンは……ありとあらゆる角度から作品を分析して、
はたしてその作品の本当の価値を、資質を上手く抽出して、
どれだけ文章にできるか。これが映画評論なんです。
そういうことができる、まともな意味での映画評論なんて、
日本に数人いるかいないかですよ。
 新聞や雑誌で、映画について書いてる奴なんて、
ほとんどがバッタもんですわ。「この映画は好みだ」
「この映画は私の趣味とは違う」「この映画は眠かった」とかね、
ただベタ褒めしたり、過激な言葉でけなしたりしてるけど、
それは評論でもなんでもない。
単なる感想です。
 僕がこの「自腹じゃ」で映画についてやっていることはね、
決して批評、評論ではない。
しかし、明らかに他の映画コーナーとは一線を画している。
それはね、明かしてしまうならば、
僕は「映画の正しい資質(ライトスタッフ)」を
見極めようとしているからなんです。
資質……映画にはね、「まさに正しい」「だいたい当たっている」
「正しくない」「皆目外している」っていうのがあるんです。
 例えば、ある女が泣いているシーンがあると。
そしたら、カメラの角度、照明の当て方、女優を映す大きさ……
それこそ撮り方のパターンなんて無限にあるわけでしょ。
しかし、どの角度、どんな光、その映画にとって、
もっとも「正しい」撮り方というのが必ず存在するはずなんですよ。
それを判断するのが、プロのカメラマン。
そのシーンに「正しい」音楽を探すのがプロの音楽家
正しいストーリー、正しい演出、正しい音楽……
それを探し求めるそれぞれのプロ、
そして、そのすべてのなかで「もっとも正しい映画」を選択するのが
プロの映画監督であると。
 僕ら作り手は、常に「正しい」ものを探してるんです。
「資質」を探してるんです。
いくら部分部分でかっこいいシーンを作ってもね、
その映画にとって「正しく」なかったら、全く無意味なんです。
カスカスな映画になるんです。
 どれだけ時代が変わっても、映画の「資質本質」は変わらないですよ。
技術の進歩なんて、あくまで外付けだけの問題で、
「正しい青春映画」「正しい恋愛映画」とかいう資質を
空振りしている映画は、どんなに取り繕ってもダメなんです。
僕は、「自腹じゃ」で、その資質をちょっとでも
みんなにわかってほしいなと思ってやっていました。
「この映画は趣味と違う」「このシーンは好きだ」なんていう
見方はいっさいしていないつもりです。
個人的にどう思うかじゃなくて、いかに「正しい」映画に近づけているか。
それで星が多かったりゼロだったりと判断してきてるわけです。…

 井筒らしくない口ぶりではあるが、この井筒のスタンスは、
映画に限らず、僕はかなり賛成する。
「映画の撮り方にただ一つの正解なんてあるのかな…」という反論は、
もしもそれが

小説を国語の入試問題にするなんておかしい。
文章は、百人いたら百通りの解釈ができるはずだ。

という戦後日本の「平等・民主主義」の名を借りたものと同質のものだったら、
全く意味をなさない。
(国語の入試問題は、悪問を別とすればきちんと答えられるものだ。
 宮本輝が、自分の小説が入試問題(または模試)に使われていたので、
 自分で解いてみたら半分くらいしか得点できなかったことに腹を立て、
 抗議の電話をしたことがあるらしいが、
 作者とテキストは別のものであることを理解していないのだろうか。
 この場合、むしろ自分の表現力を反省すべきであろう。)

 文化には、「規範」が存在する。

 井筒が述べているのはこの規範のことである。


――とりあえず、ある分野で何かを作ろうとするなら、
その分野の規範に従わなければならない。
その分野はその規範に従って成立しているものであり、
ものを作る以上はこの規範に自覚的であるべきだ――


話し言葉で書かれているため曖昧な表現になっているが、
井筒の主張はこういうことだろう。

 もちろん、この規範を破壊したり無視したりすることは
全面的に否定されるものではない。
「革命的作品」と呼ばれるものは、しばしばこの規範を無視することから
生まれるものであり、規範からの逸脱はまた新たな表現の可能性でもあるからだ。
その場合、井筒ならば「それを自覚的に実行するならば認められる」と
述べるのではないだろうか。


 この引用からも明らかなように、井筒は「職人」である。
映画職人だ。
「芸術家」と「職人」という対立をもってくれば
三谷幸喜のテーマとなるのだろうが
(『みんなのいえ』はその話だ。
 しかし、僕にはこれがそもそも対立するものなのか、という素朴な疑問があるが)、
井筒は芸術家ぶって映画の規範のイロハもわかっていないような作品には
我慢が出来ないのだろう。
「職人」であることの貫徹に、僕は手放しで賛成ではないが、
映画には規範が存在し、映画は規範に則って作られなければならない、
という立場には賛成である。
そもそも、この規範の集積そのものが映画という虚構を成立させているのだ。


だが……コーエン兄弟の『オー・ブラザー!』が星1つ(5つが満点)というのは
どう考えてもおかしい。
アメリ』は星ゼロだ。
さらにこの本の続編では『ボウリング・フォー・コロンバイン』、
『エレファント』はともに星がゼロだったような……。
井筒自身の作品でいえば、『パッチギ!』はよかったけど、
ゲロッパ!』はどうなんだろう……。


僕は井筒がわからなくなってきている。

こちトラ自腹じゃ

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