『こちトラ自腹じゃ!』、井筒和幸(続き)

以前、昨日の内容を他のブログでアップしたとき、
以下のようなコメントがあったので、これもアップしておく。

いくつかね、違和感があるんですよ。
考えてたら寝られなくなっちゃったんで、ちょっと書かせて。
変だったら削除プリーズね。


 1つは、井筒の言葉の問題。
だいたい人が「この映画は私の趣味とは違う」「この映画は眠かった」とかって
言うときは、井筒の評と同じく映画の資質を指してることが多いでしょ。
当人がどういう規範や文法を意識してるかはわからないけど。
むしろ井筒がこういうことを言うならば、先にその資質のありようを詳述すべき。
井筒の映画評こそ、「くだらん」「あほだ」「伝わらない」の連呼で、
「個人的にどう思うか」を巡る駄文。
彼が規範とかっていえば言うほど、規範のつまらなさが伝わってくるような。
まぁこの人に興味はないのでこれは別にイイや。


 大事な方は映画の撮り方のこと。国語の問題のアナロジーはよくない。
あれは必然的な答えの出てくる所しか問題にしないもん
(だから宮本は自分の書いたこと解ってなかったか、間違って書いてたんですよ、多分)。
むしろ、実力派監督百人集めて、
「このショットの正しい撮り方を精確に記述せよ」と問われて、
彼らが「資質」を持ってるなら、百人とも同じ答えを出すかってことでしょ。
さらに、「このカットの必要性を述べよ」とかね。
じゃんじゃん続いて「この映画の撮られる必然性は?」なんてなったらどうなる?


 ある程度はね、あると思うの。枕詞的な確実さが要請される所って。
けどね、それは最低の水準を支える指標であって、
映画全体を支えるわけではないと思うんよねー。
いやぁ、むかーし Auggie さんと、小説に関して同じこと長い時間かけて
ひたすら話し合ったよーな気もする。
奥泉のやつだったかなー。


以上がそのコメント、以下がそれに対する私の答えである。

確かに僕は井筒に安易に賛成しすぎたかも。。。

> むしろ井筒がこういうことを言うならば、
> 先にその資質のありようを詳述すべき。

これはまったくその通りだね。
僕も井筒の言葉を勝手に理解して述べてるわけだし。
井筒は言葉足らずだし、「規範」に基づいて批判しているとしても、
井筒自身の否定の仕方は「激しい言葉でけなしている」だけなんだから、
確かにおかしい。


それで、「資質」だけど、これは監督の「才能」のようなものではなくて、
映画自身に内在する「要素」「本質」みたいなことを言ってるんじゃないかな?
まぁ、そうだとしても、君の批判はかわせないわけだけど。
むしろ、井筒が言ってるのは、君の言う
「枕詞的な確実さ」であり、
「最低の水準を支える指標」のことだと思うんだよね。
僕はそう理解しました。
で、最近の映画はこの「最低の水準」をクリアしてないと思われるものが多すぎる、と。


しかし、確かにこの「最低の水準」が映画全体の評価になるのはおかしいね。
僕も全くそんなことは考えてないけど、
井筒がどう考えているかはわからない。


確かに(三度目だ)、上の引用を読むと、
井筒が「最低の水準」至上主義者のようにも読める。
その際には、彼のことはやはり映画「職人」と呼んだ方がいいのかも。


でも、まぁ、いいや。
僕もそんなに井筒のことを弁護するほど好きじゃないし。
ソダーバーグといい、井筒といい、
どうして僕は、あまり好きじゃない監督について
君とこんなに話し合うハメになるのだろう?

確かに(四度目)私は井筒に安易に同意してしまっているようだ。
井筒監督には、もう少し詳しく映画論を語ってほしい気がする。