『去年マリエンバートで』(“L’annee Derniere A Marienbad”), 1961, フランス, 監督アラン・レネ、脚本アラン・ロブ=グリエ

また観てしまった。

観た後で後悔するのは観る前からわかっているのに、
私は数年おきににこの映画を観てしまう。

これは、難解なものにこそ高い価値があるとするスノビズムのあらわれだろうか。


この映画は、映画史に名を残す問題作である。
どれくらい問題作かというと、英文学の研究家であり、
ジョイス研究家でもある柳瀬尚紀は、若い頃に映画を勉強しようと思って
初めて観た映画がこの『去年マリエンバート』で、
それ以来彼は映画を全く観なくなったらしい(若島正・談)。
膨大な文化の集積の上に成立している(混濁している、とした方が適切か)、
ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に、
映画的な要素が「響いて」いないことを祈るばかりである。


また、『ぴあシネマクラブ』(1996年度版・洋画篇)にはこう書いてある。

50年代に『文学とその方法』で、論争を巻き起こした作家ロブ・グリエが
その手法を映画に持ち込み大反響を起こした作品。
ある広大な城館でであった男女をモチーフに、現在と過去、
現実と幻想を錯綜させながら人間の意識を鋭く描き出す。
(一部改変)/1961年ベネチア映画祭金獅子賞 

映画の内容がよくわからない説明だが、しかしどうしようもない。
実際、この映画の紹介はこのようにしか述べることは出来ないだろう。

ちなみに、評価は最高に近い星3.5。
ここらへんが『ぴあ』のスノビズムをあらわしていると思う。
戦艦ポチョムキン』と同じというのはなんとなくわかるが、
タクシードライバー』と同じ評価というのには素直に納得することができない。
評価方法に何の解説もない
(恐らく、この本の中で虚ろに繰り返される「映画史上の重要性」が
その評価基準だと思われるが…)
のも気になるが、
以後、ぴあの『シネマクラブ』には星の評価がなくなったので、
この点についてはこれ以上触れないこととする。


さて、映画自体は今回もやはりよくわからなかったので、
加藤幹郎の『鏡の迷路』を開く。
この映画の解説がこの本に収められており、
以前にそれを読んで感心したおぼえがあるからだ。

ある対象について考えをめぐらしてもうまく言葉が出てこないときには、
自分の思考のとりあえずの叩き台として、批評家の意見を参考にする。
そしてその批評家の言葉を鵜呑みにするのでなく、
批判的(熟考するという意味での批判だ)・反省的に考え直すこと。

これが建設的な思索というものだ。

ショットとショットをつなぐ編集原理の特異性、
音(台詞、環境音、音楽)と映像の関係のまったく新しい探求

…一般に物語映画が入口と出口をそなえたひとつの安全な
鏡の迷路であるとすれば、ロブ=グリエの物語映画は
いわば入口も出口も欠いた危険な鏡の迷路である。
ロブ=グリエの物語映画は、物語映画の体裁をとったうえで、
物語映画の構造的約束事を内側から無効にしてゆくプロセスをもつ映画、
即ち<反物語映画>である。
物語映画の構造的約束事とは、物語の生成単位である編集
(あるいはカメラの一連なりの運動と持続)が、
因果律もしくは首尾一貫性を保証すると同時に、
それによって保証されるようなかたちで行われるものである。
ロブ=グリエはそうした構造的約束事とはまったく異質な、
独自の物語上の約束事を打ちたてようとする。

…彼のフィルムは『「現実」を再現する鏡』というよりは、
むしろ『「現実」を再現しようとする鏡に向けられたもう一枚の鏡』である。
ロブ=グリエ的物語とは、いわばこの二枚の合わせ鏡のなかで
無限に増殖してゆく映像のプロセスにほかならない。
そしてこのとき、この合わせ鏡のなかにいるのは、
物語中の登場人物というよりも、
むしろわれわれ観客/読者の方である。…
…こうして、物語は「観客によって想像される」のであり、
これは、物語が「前もって知られた何らかの意味を、図解する」のではなく、
物語自身によって、自分自身の意味を創造していく探求のプロセスに
なるということである。
 問題なのは、去年マリエンバートで男と女が実際に出会ったかどう
かということではなく、去年マリエンバートでわれわれは
出会ったのだと熱をこめて女を説得する男の、その説得のありようなのである。
それは二人の出会いと逢瀬の、ありうべき無限のヴァリエーションを可能にする。

…空間的・時間的座標軸を前提とする現実と夢、現実と想像、現在と過去
といった二分法は、『去年マリエンバートで』において完全に破綻する。
そこにあるのは、物語映画が現在進行形の形でしか自らを開示できない
という意味で、永遠の現在であり、絶対の現実である。…
…『去年マリエンバートで』には起源としての現実は存在せず、
従って再現されるべき現実も存在しない。
存在するのは、鏡と鏡の無償の反映の映像だけであり、
それが『去年マリエンバートで』という物語映画の唯一の現実なのである。

述べられている内容について深く納得するものの、that節が多用されており、
初稿は英語で書かれたのか? と疑ってしまう文章である。
この『去年マリエンバートで』の解説が、
『鏡の迷路』という本の結論部分になっており、
加藤の筆も興奮気味に動いたのかもしれない。

ここで述べられているように、この映画は独自の文法を用い、
「物語映画の構造的約束事」を無視している。
しかし、加藤も実際にそのいくつかを示しているように、
この独自の文法の一つ一つは、分析していくことによって、
『「物語映画の構造的約束事」からの逸脱』というその意図が明らかになるものであり、
何も考えずにめちゃくちゃに行われたものではない。

時間があればこれらを一つ一つ分析したかったのだが、
とてもそのような時間はなかった。
今回の鑑賞は、相変わらずの加藤論文の確認と
混迷に起因する欲求不満で満足しなければならない。


果たして、一つ一つのショットに膝を叩きながら
この映画を観ることができるような日は私にやってくるのだろうか?  


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